風のDiary
2011.11.29.Tue.
このたたかいがなかったら

戦場カメラマン「渡部陽一」の「朗読公式サイト」が開かれている。
http://www.jvcmusic.co.jp/watanabeyoichi/

「Father’s Voice」という
覚 和歌子が作詞し、青柳誠がインストゥルメンタルの曲と編曲をしている
朗読のアルバムが発売されていることを知る。
そのCDに収められている朗読のいくつかは
このサイトで映像付きで聞くことができる。
そのなかの「このたたかいがなかったら」という朗読を聞き、思わず涙する。
渡部陽一の声は、ほんとうにすばらしい。
渡部陽一の経験をモチーフにしながら覚 和歌子が作詞しているという。

そこで描かれる「たたかい」はまさに「戦場」のことだが、
「なかったら」という仮定に対して、
ただ「なかったらよかったのに」というような応えはそこにない。
「たたかい」のために起こったさまざまな苦しみや悲しみと同時に、
「たたかい」が起こった、起こってしまったがゆえに、
それゆえにこそ起こったことに視線を向ける。

「たたかい」がなかったらどんなによかっただろうか。
けれども「たたかい」は起こってしまった。
そして現在もまだ起こり続けている。

わたしたちの日本にも、大きな津波が襲い、
原発ははじけ、今も放射能をまき散らし、
それにもかかわらず、原発をなくそうとする動きはあまりにも乏しい。
そこにあるのは、お金をめぐるたたかいでもあるのかもしれない。

「津波が襲わなかったら」
「原発の事故が起こらなかったら」
と問うてみること。
そしてそれに対して、
起こった、起こってしまったがゆえに、
それゆえにこそ起こったことに視線を向けることもできる。

たとえば、原発事故が起こらなかったら、
世の中の多くの人は、原子力についてあまりにも無知のまま、
それが生み出してきたお金の魔力についても、知らずにいたかもしれない。
知らないままに、決定的な破滅に至るまで、
とくにそれを問いかける機会を持てないでいたかもしれない。

「たたかい」は、そんな大きな「たたかい」から、
私たちの身のまわりで起こるごく小さな「たたかい」まで、
わたしたちをさまざまに苦しめ、悲しませる。
苦しみや悲しみを超えていくためには、
たぶんその苦しみや悲しみゆえに生まれる大切なものに
気づくことが必要なのかもしれない。

ぼくは「たたかい」が嫌いだ。
小さなころから、「たたかい」を避けることばかり考えていた。
そして否応なく起こる「たたかい」の前で、
息をつまらせ悲しみ諦めることでそれを避けようとし続けていた。
「このたたかいがなかったら」
ぼくはこんなに悲しまなくてすむのに。
そう思っていた。
ぼくには、生きることそのものが「たたかい」であり「悲しみ」だった。

けれど、そんな「たたかいがなかったら」、
ぼくはたぶん「悲しみ」を超える力があること、
それを育てることができるのだということをいつまでも知らずにいたはずだ。