風のDiary
2011.11.13.Sun.
馬鹿になれる力を

2011.11.11はとくに特別なこともなく過ぎた。
個人的にとくにこれといったことが起こったわけではないが、
このところ、気分的に?過去のさまざまな凝りというか
無意識にわだかまってきたこだわりのようなものが
少しずつとれていくような、そんな感覚がある。

そんななかでも、日々は坦々とすぎていく。
今日は、少しだけうれしいことがあった。
(精神科学的なところとはほとんど無関係だけれど)

昨日、今日と姫路で開かれた第6回B1グランプリで
岡山県真庭市の「ひるぜん焼そば好いとん会」がグランプリを獲得。
この大会で、岡山県勢はその他に第2位、第9位と大健闘。
このところずっと岡山県の観光と真庭市の観光の仕事、
観光キャラバン隊たやグルメフェスタの仕事をしている関係もあって、
昨日、オープニングに参加してきた。

*こんなブログを開いていたりするので・・・笑ってみてやってください
http://okayama-caravan.com/
http://maniwa-caravan.com/
なんか、真庭市の「ひるぜん焼そば」がグランプリということが理由かわからないが、
真庭キャラバン隊のほうのブログがつながりにくい・・・。

個人的にいえば、人の集まるところは苦手で避けたいし、
どうして何時間も並んでB級グルメを食べようとするのか理解できないが、
どこかで多くの人はなにかしらの解放感を求めているということなのかもしれない。

なぜ人の集まるところが嫌いな自分が、
人を集める仕事をしているのかいまだによくわからないが、
ある意味では、ぼくがほとんど意味をもてないように思えることに
積極的にかかわることで、ぼくの狭い世界がなにがしか広がるきっかけになる
ということなのかもしれない・・・とか思ったりもしている。

さて、そんな今日、由紀さおりが海外で人気だというニュースがあって気になった。
1969年の日本のヒット曲を集めて歌ったアルバム
「1969」がヒットしているらしい。
1969年と今の日本の気分がどこかで近いのかもしれない。
昭和30年代の気分の「3丁目の夕日」が流行ったことがあったが
今度は昭和40年代の気分なのかもしれない。
昭和40年代といえば、全共闘的な時代でもある。
ある種の「解放」をシュプレヒコールした時代である。
ぼくの小学生から中学、高校生頃の時代。
この時代の音楽はぼくにとってもほとんど刷り込みに近く、
由紀さおりの曲なども自然にほとんど歌詞まで覚え込んでいたりする。

全共闘的なシュプレヒコールといえば、
最近、キリスト者共同体の小林司祭のブログが
反ー原発一色のシュプレヒコールで埋まっている。
http://wind.ap.teacup.com/naoskoba/
反原発、脱原発という点についてはまったく同感であるが、
ぼくとしては、こうした表現姿勢にはどこか違和感を覚え続けている。
内容ではなく、その表現の仕方のほうである。

原子力は現在の人間にとっては、
ある意味、認知症の人がかなり致命的なまでに危険な道具を
わけもわからずに使っているようなもので、
そのことについてはどんなに強調してもしすぎることはないが、
それを絶対悪視してしまうのはどうかという気がしてしまう。
絶対悪視するということは、自らの悪への自覚が損なわれてしまうことでもある。
私は善、あなたは悪、という構図を生きるということ。
これではまるでかつてのキリスト教の魔女狩り図式ではないか。

シュタイナーはキリスト者共同体を人智学とは区別していたが、
(人智学はキリスト者共同体への示唆を与えるがそれを超えない)
そういう側面もあるということなのかもしれない。

幸い、このところ、親鸞や法然への視線が熱い。
悪を避けられない救われない衆生の救いがそこではクローズアップされる。
全共闘的なシュプレヒコールも、
「われわれ」は正しく、相手は間違っているという図式である。
むしろ、全共闘的なシュプレヒコールそのものが
これから解放されていかなければならないのかもしれないと思う。
行動は必要だが、それが党派化されたとき、
それそのものがルシファー化、アーリマン化されてしまう。
そのことに気づけないでいると、
そうした「われわれ」そのものが相手と同じところで
踏み迷ってしまうことにもなる。

そうしたときになにができるか。
ある意味で、自分がいちばん馬鹿馬鹿しいと思っていること、
たとえば、B級グルメを食べるために長蛇の列に並んでみること、
しかもそれそのものを、自分であほらしいと笑い飛ばしてみること。
つまりは、自分はなんてアホなんだろうかと笑う視点をもってみることも、
必要なのではないかと思ったりする。

ある意味で、世の歴史を混迷に導くのは、
とても賢いとされる人たちばかりなのではないか。
少なくとも。自分を人よりも賢いと思い込んでいる人は、
自分を馬鹿だと思う能力に欠けているのは確かであるように思える。

今こそ、馬鹿になれる力が必要だと切に思う。