風のDiary
2011.8.6.Sat.
66年目の原爆の日に

66年目の広島「原爆の日」の平和記念式典をテレビで見る。
原爆が投下されたのは午前8時15分。
広島にいた5年ほどのあいだ、
通勤の車中で黙祷はできないものの、
ラジオで平和宣言などを聴いていたりしたのを思い出す。

今年は東京電力福島第一原子力発電所の事故による被爆問題もあり、
これまでにもまして特別な「原爆の日」になっている。
菅直人首相も参列、メッセージを寄せている。

あらためて、日本は「核」と深い縁を持っている国であると観じる。
「核」は、物質の下位にあるともいえ、
いわば黄泉の国から何者かを召還してくるようなイメージがある。

火の神カグツチを産んだために亡くなったイザナミを追って
イザナギは黄泉の国に赴く。
イザナミは約束を破って自分の腐敗した死体を見られたのに怒り
「わたしに恥をかかせましたね」と、
黄泉の国の軍勢にイザナギを追わせ、
黄泉比良坂で、桃の実を3つ投げつけ、大岩で道を塞ぎ撃退する。
そのときに、イザナミが
「一日にあなたの国の人間たちを千人殺してあげましょう」というと
イザナギは
「そうするならば、私は一日に千五百の産屋を建てましょう」という。

人間は、「核」の力を求めて黄泉の国に降った。
そこで「イザナミ」に恥をかかせることになったのではないか。
恥をかかせるとは、その黄泉の力をただ即物的に利用しょうとしたことなのだろう。
まるで愛も理解も得ようとすることのないままに。

いくら千引き岩で黄泉比良坂を塞いだところで、
とりあえずは桃の実を三個投げてしのいだところで、
肝心の問題が解決されたことにはならない。

「核廃絶」「脱原発」が緊急の課題であるのは間違いないとしても、
それではまだ千引き岩で塞ぎ、桃の実を三個投げるだけにとどまっている。

重要なのは、たとえばシュタイナーの『人智学指導原則』にもあるように、
自然そのものへの霊認識及び新たな力の創造ではないだろうか。

  183 19世紀中頃に始まった自然科学の時代に、人間の文化活動は次第に
  自然の下位領域だけではなく、自然の下へと下降していった。技術は自然下の
  ものになった。
  184 自然下的、技術的活動によって、人間は自然の下へ沈んだ。超自然の
  なかへとみずからを高める霊認識を体験的に見出すことが必要である。このこ
  とをとおして、人間はみずかたの内面のなかに、沈下しない力を創造する。
  185 かつての自然観照は、人間の進化の根源と結びついた霊をまだその内
  に含んでいた。この霊は次第に自然観照から消え去った。そして、純粋にアー
  リマン的な自然観照のなかに入り込み、このアーリマン的な自然観照は技術文
  化のなかに浸透していった。