風のDiary
2011.6.13.Mon.
聖霊降臨祭

復活祭から数えて(復活祭を第一日として)50日後の
昨日6月12日は、聖霊降臨祭(ペンテコステ)。

このメーリングリストも(すっかりスタイルは古色蒼然としているものの)
1997年の6月14日からの契約なので、この時期に周年を迎える。
特に「聖霊」が「降臨」するわけではないし、
ぼくも最近はすっかりサボりスタイル(引きこもり)が身についてしまって、
たまにしか「降臨」しなくなっていたりもする。

インターネットの前身のパソコン通信の時代(1991年)からすると
もう20年ほどになるけれど、
最初の頃は、シュタイナーの神秘学を少しでも理解しようとしながら、
稚拙ではあってもその内容を少しでも全体像に近いものとして
ご紹介できればということを切に思い、日々なにがしかを書いていたように思う。

それから20年、シュタイナーそのものはずいぶん知られるようになってはいるが、
その肝心な部分は、まだほとんど理解されていないだろうし、
むしろ裾野が広がった分、誤解の部分もずいぶんあるだろうとも思っている。
(ぼくもたぶん勝手な理解をしているところがたくさんあるだろうと思う)

3ヶ月ほどまえに原発事故が起こったが、
原子力に対する認識を確実かつ根本的なやり方で深められるのは、
物質そのものにも向けられているシュタイナーの視点以外には
ないのではないかと思っているが、
そうした部分についてもおそらくはほとんど理解されてはいないだろう。

放射性物質をもとにした原子力は、
物質を解放する方向性ではなく、
闇の方向へと閉じ込める方向に向かう。
ある意味、原子力は解放されない物質の怒りによって
引き出される力のようにとらえることができる。
物質を怒らせれば怒らせるほど大きな力をそこから引き出すことができる。
そして一度怒らせたら、ちょっとやそっとではそれを鎮めることなどできない。
感情を限りなく暴走させられた人が、狂気に陥ってしまうように。

シュタイナーの神秘学がもっとも独自性をもっているのは、
そうした物質にも深く関わってくる科学、自然学の方面で、
その方向が深められることでこそ人智学の必要性が認識されるように思う。
とはいえ、そこらへんは難しすぎてご紹介しがたいジレンマがあるのだけれど・・・。

そうした側面も含めながら、
間接的、潜在的にシュタイナーの影響がおそらくずいぶん多方面に渡っていることも
最近は以前よりは少しながら理解できるようになっているので、
今後はそこらへんのことも含めて見ていければと思っている。