風のDiary
2011.6.2.Thu.
HoSoNoVa

先日、NHKのETVで細野晴臣をとりあげていた。
3.11の東北大震災後、1ヶ月ほどまったく音楽することがなかったという。
番組は、ちょうど3.11の地震のときに、
インタビュアーの原田知世といっしょに
東京の街を歩いているシーンで始まっていたと思う。

日本のミュージシャンのなかで、
細野晴臣はぼくにとって特別な存在のひとりだ。
その音楽を聴き込んでいるというほどでもないのだが、
その基本的なあり方がぼくにはとても信頼できる。
言葉をかえていえば、嘘がない、虚飾がない、
それに加えて、問いそのものがある、とでもいえるだろうか。
しかも問いとはいっても、大げさにふりかぶったような問いではなく、
聴きながら自分のなかから湧いてくるなにかを引き出してくれるような問い。
これはちょっと特別な感覚である。

そんな細野晴臣だからかもしれないが、
大震災後、自分がなぜ音楽をするのか、といったことを
問い直さざるをえなくなったのかもしれない。

今回のようなことが起こったとき、
人はさまざまな影響を多かれ少なかれ受ける。
「ロックンロールだ」とかいって、
義援金を募るシュプレヒコールをする反面、
女性問題を同時に起こしていたりする人もいれば、
細野晴臣のように、自分の根拠というか、根っこというか、井戸の底というか、
そういうことを問い直さざるをえなくなるという人もいる。
いろんな人がいるので、良い悪いとかいうのではないけれど、
外的なアクション=リアクションを起こす人よりも、
それまでのなにかが自分のなかで変容していかざるをえず、
そこからしみ出してくる「問い」に誠実な人をぼくは信頼できる。
その「問い」は、大げさに問われる問いではなく、
自分のもっとも身近なところにある問いである。

新譜『HoSoNoVa』はとても近しく、やさしく、
そして細野晴臣のいろんなものがさりげなく詰まっている。
ぼくもそんな「声」でなにかが伝えられたらどんなにいいかと思う。

ここ数年、どうも、それまでの自分の「声」が
どこか違うのではないかという感じがして仕方がなく、
こうして書くこともどこか違うように思えてしまい、
書き込むことがずいぶん減ってきている。

自分の井戸のそこから出てくる「声」。
つくりものではなく、しかもピュアを気取るようなわざとらしさでもなく、
そんな感じで細野晴臣の『HoSoNoVa』のような感じで、
なにかが自分のなかからでてくればいいなと思っている。

ちょうどこのメーリングリスト、ホームページも、もうすぐ14年、
パソコン通信時代をふくめれば20年ほどになる。
このところようやく何かが、ほんの少しだけれど、
やっと自分のなかから湧き出てきているようなそんな感じもしている。
花は紅、柳は緑・・・とでもいおうか、
ぼくがぼくでなくなってまたぼくになれたとでもいおうか。
ご大層なことではないけれど、自分の「声」で
少しずつでもあらためてなにか話せればいいなと思っている。
ぼくのなかの大震災は、たぶんそんなことでもある。