風のDiary
2011.1.12.Wed.
川本三郎とノスタルジー

川本三郎『現代映画、その歩むところに心せよ』
(晶文社/2009.2.10.発行)を読む。

2003年から2008年に公開されたインディーズ系の日本映画、
アジア映画、ハリウッド以外の欧米映画の作品評と
来日した監督へのインタビューが収められている。
知らなかった映画もたくさんあり、
ほとんどが観ていない映画ばかりなのだが、
どの評も、そしてインタビューも興味深く、
まるで数十本の映画を観たようである。

その幾つかを挙げてみる。

・西川美和『蛇イチゴ』『ゆれる』
・山下敦弘『リアリズムの宿』『天然コケッコー』
・塩田明彦『カナリア』
・小栗康平『埋もれ木』
・内田けんじ『運命じゃない人』
・根岸吉太郎『雪に願うこと』
・マジッド・マジディ『少女の髪どめ』
・イ・チャンドン『オアシス』
・イム・サンチャン『大統領の理髪師』
・バフマン・ゴバディ『亀も空を飛ぶ』『わが故郷の歌』
・チャン・ヤン『胡同のひまわり』
・ワン・チュアンアン『トゥヤーの結婚』
・リー・チーシアン『1978年、冬。』
・ジャ・ジャンクー『世界』
・ビャンバスレン・ダバー『らくだの涙』
・クリスチャン・フレイ
 『戦場のフォトグラファーージェームズ・ナクトウェイの世界』
・ヴォレフガング・ベッカー『グッバイ、レーニン!』
・アレクサンドル・ソクーロフ『太陽』
・ベネット・ミラー『カポーティ』
・ギャヴィン・フッド『ツォツィ』
・アトム・エゴヤン『アララトの聖母』

挙げていけばきりがなくなるが、
便利なもので、ここに載せられてある映画のほとんどを
レンタルショップで観ることができる。
便利なものだ。
ある意味このカジュアルさに毒されてもいる自分がいて
それを自分で苦笑したりもしている。
先日もここに挙げられている映画をまとめて借りてきて観ていたりもした。
そして川本三郎の「評」にはそれなりに納得させられもした。
実際、これらの映画を観ることはある意味で
「現代史」の「物語」からさまざまに熱く学ぶことでもある。
ぼくのような社会意識もなくぼんやりした人間にも、
「現代映画」のひとつの局面を垣間見ることができる。

実を言えば、これまで川本三郎の書いたものを
まとまって読んだことがなかったりもしたのだが、
これを機会にいくつかまとまって読んでみたりもしている。
それで思ったのだが、川本三郎を象徴するキーワードは
おそらく「ノスタルジー」なのだろう。

本書のなかの『ALWAYS 続・三丁目の夕日』の評に
こんなところがあった。

   ノスタルジーは、東京のように破壊と建設、喪失と再生が大きく
  繰り返されている都市の独特の感情といっていい。
   それは、日本人独特の感情、「もののあわれ」と重なるかもしれ
  ない。
   ノスタルジーというと、必ず、うしろ向きでいけないという批判
  が出る。判で押したように「過去を美化するな」といわれる。「単
  なるノスタルジーではなく」は、ノスタルジー批判のお決まりのい
  い方である。「単なるノスタルジーではなく」をみるたびに、「ノ
  スタルジー」のどこが悪いのかといいたくなる。とくに、大いなる
  破壊の連続の都市、東京に住む人間にとっては、「ノスタルジーこ
  そ。生きる支えだ」といいたくなる。
   なぜならノスタルジーとは、近過去への想い、つまり、自分の記
  憶にある祖父母や父母が生きていた時代を大事にすることであり、
  彼らとの連続性のなかでいまの自分があると強く認識することだか
  ら。(P.99-100)

よくもあしくも、よくなくもあしくなくも、
川本三郎はノスタルジーとともに生きているのを強く感じる。
それがなければ「生きる支え」を持てなくなる。
そしてそれに共感しないでもない。
とはいえ、想うのは、
「近過去への想い」や「祖父母や父母」「との連続性」のないまま
生きる人はいったい何を「生きる支え」にしていけばいいのだろう。
そんなことをふと感じた。
ノスタルジーはノスタルジーとしながらも、
そこに支えを持てない人への想像力もまた必要なのが
「現代」なのではないかと思うのだ。