風のDiary
2010.12.24.Fri.
ゆっくり

「戦場カメラマン・渡部陽一」は、
文章を読みあげるようにとてもゆっくりとていねいに話す。
ひとことひとことが、受け取り方はそれぞれだろうが、
おそらくしっかりと聞き手には届けられる。

脅迫的なまでのスピードを要求されるテレビの時空のなかで、
その時空にあることで、独特のテンポと間が「浮く」「ずれる」のが笑いを誘う。
笑いを誘いながらも、話される内容の中心にあるのは
お笑いでは片付けることのできないリアリティのある体験。

自分はどんな話し方をしているのか、ふりかえってみる。
どれだけゆっくりとていねいに話せているだろうか。
相手の話がおわるのをちゃんと待って、咀嚼して、
それに対して、ひとことひとことを自分のなかでふりかえりながら、
ゆっくりと話すことができているだろうか。
できているはずもないことに、否応なく気づかされてしまう。

渡部陽一のように話したいということではもちろんないが、
脅迫的なテンポを要求される場が多いからこそ、
きちんと考えられたことをゆっくりと話す自分なりのかたちを
少しでもつくっていければと思う。

聴くことについてもおそらく同じことだろう。
読んだり見たりすることでも同じ。
きちんと受けめることができるためには、
それなりのかたちが必要とされる。
そうでなければ、すべてがおざなりになってしまう。

だから、ゆっくり聴くこと。
ゆっくり読むこと、ゆっくり見ること。
情報の洪水のような時代だからこそ、
そうしたことがとくに必要になってくるのだろう。
それこそが、ある意味での「箱船」なのかもしれない。

さて、近くの本屋で、少し前に
速読を啓蒙するビデオ付きのコーナーがあって、
いかにそれがすばらしいかが連呼され続けていた。
速読をしてどうするというのか、よくわからない。
読む習慣をそれなりにつければ、
その読む内容に応じて、読みは早くなるのは確かだが、
その早さは「深さ」を伴ってはじめて意味のあるものになる。
その「早さ」は同時に立ち止まって考え続けることでもなければならない。
速読というのは、どうもそういうものではなさそうだ。
今必要なのはむしろ、逆のことではないかと思えるのだが・・・。