風のDiary
2010.12.7.Tue.
THE WAVE

『THE WAVE ウェイヴ』というドイツ映画がある。
高校でクラスを独裁国家に見立てた心理実験のような授業を行ううち、
たった5日間ほどで、そのクラスは
その一体感のなかで独裁制をもった集団となっていく・・・。
実話だそうだ。
コワイ話だが、リアリティがある。

先日、第9回の小林秀雄賞に選ばれた
加藤陽子『それでも、日本人は「戦争」を選んだ』を読んだ。
上記の映画とは視点そのものが異なってはいるが、
自分がもしその場にいたとしたら、
そこで何を考えどのように行動したかということは
考えてみたほうがいいと思う。

もちろんそこで与えられている情報や立場などによって、
考えることのできることも行動のできることも異なりはするし、
そこで生じてしまうある種の「一体感」や「集団意識」に
どのように反応するかというのは人それぞれだが、
コワイことに、「一体感」や「集団意識」というのは
多くがそうなってしまうということである。
そのときの多くは「それでも」さえないままに、
集団の一部となってしまうのである。
ある意味で、多くはそういう状態を求めているところもあるのだろう。

ある種の「共同」に関する感受性は持っていた方がいいことは確かだ。
「場の空気を読む」ということもその感受性はあったほうがいい。
そこで重要なのは、異なったものの調和や和といったことと
融合的な無意識状態の違いをわかっておくということだろう。

催眠術で、意識化で指示を与えられたことを
自分がそれと意識しないまま実行してしまうことがあるそうだが、
そういう状態にある集団がなっているというのはとても不気味である。
SFのようになるが、もしそんななかで一人だけ覚めているとしたら、
ある意味その覚めた一人だけが狂気だと集団からは見なされるかもしれない。
その差を絶対的に判断することはおそらくはできない。

とはいえ、集団化の好きな人たちというのが
あまりにも多すぎるように感じることが多い。
上記の映画が示してもいるように、
ある種、人はあまりにも寄る辺なく不安なのだろう。
だからそこに正当化された「権威」があると、
それを自分の上位自我のように看板にして不安を払拭することができる。
そういう状態はとても悲しむべき人格のある種の破壊状態なのだが、
その破壊状態こそを多く好んでしまうということでもある。