ルドルフ・シュタイナー

エソテリック講義の内容から
参加者の覚え書き
GA266

佐々木義之 訳


 

秘教講義 秘教講義 ベルリン4-18-1906

  元型的な自我から我々は生まれた
  あらゆるものの中に生きる原初の自我よ
  あなたはより高次の自我
  我々はあなたへと還る

 これに次の句が加えられる。これはその原初の自我がいかにして人間に働きかけ、そして、人々に現れるかを表現している。

  真理、叡智、果てしなきもの、おお神よ、
  無上の喜び、永遠、美、
  平安、恵み、純粋さを
  我に
  平安、平安、平安を

 最初の節は三位一体の本質を、後の節はその三位一体がいかに人間の魂の中に沈み込むかを表現している。

 マントラ:
  原初の自我よりすべてが生まれた
  すべてはそれに還る
  原初の自我は私の中に生きる
  あなたへと私は努力する。
  AUM-平安、平安、平安、AUM。

 あらゆるものが、人間の肉体でさえ、このより高次の自我から生まれる。世界には何か卑しいもの、あるいはほとんど価値がないものが存在する、と考えるべきではない。すべてが神的なものである。一粒の砂でさえ神に由来している。私たちが鉱物の中に見るのは形態を取った神の思考である。神の思考はあらゆる鉱物形態の中に表現される。
 形態以外にも、神はその命を植物の中に注ぎ込まれた。
 それらの生命に加えて、神は動物たちや人間の形態とともに、より低次の魂の中に感情を注ぎ込まれた。私たちの周りにあるすべてが神の力の表現である。
 神が人間のために創造した最も完全なものは人間の体である。人間の体とは神が造り出した最も完全な形態なのである。それは人間の魂がそれを通して世界を覗き込むための道具である。人間の体は彼の魂のためにすばらしい仕方で整えられた神殿であると考えられる。しかし、その魂はまだ完全ではない。それはその発展の緒についたところである。人間の体は間違いを犯さない。間違うのはいつでも不完全な魂である。熱情、欲望、そして衝動がその中に生きており、それはそれらの欲望を満足させるために体を使用する。
 しかし、人間の体には、魂がそれを通して世界を覗き見るための感覚があるように、魂の中には、それをますます完璧にするよう徐々に発達する器官がある。そのような器官は既に魂の中で発達している。
 動物界には強力な衝動が見出されるが、それは感覚器官から独立している。もし、ドイツにはいない蝶のつがいを連れて来て、雄をフランクフルトに、雌を例えばマグデブルグに放つとすれば、2羽は間違いなく再会するだろう。彼らは感覚器官よりもさらに繊細な特別な器官によってそうするのである。もし、私たちが全く見知らぬ人に出会い、夫婦や友人の場合がそうであるように、その人に大いなる共感を持つならば、それはこれらの人々が互いに属しており、彼らにそれを告げるとともに彼らを一緒にするところの魂の器官を有している、ということの証である。
 人間はそのアストラル体を純粋なものにし、他の体を高貴なものにすればするほど、そのような魂の器官をますます発達させることになる。どのような食物がより高次の発達にとって好ましく、また害になるかを考えることがきわめて重要である。誰もがその秘教的な発達にとって好ましい食物を選び出す立場にあるわけではない。私たちを内的に前進させるものを諦めた方がよいときもある。とはいえ、それでもある種の食物が人間の助けにならない特質を持っていることは事実である。人はそのより高次の発展のために特定の器官を発達させなければならない。ヨガの訓練においては、そのための特定の集中が行なわれる。
 人が、「私はある」という考えをもって、両目の間、鼻のつけ根の一点に集中するとき、私たちが二弁の蓮華と呼び、彼を「私」へともたらすところの器官が発達する。動物は彼自身に対して「私」と言うことはできない。人の前脳が発達したとき、その頭の中、鼻のつけ根のところに自我の器官が据えられた。人では、自我はそこに生きる。動物では、自我は頭の前方、その外側にあり、頭蓋の内側にはない。動物の場合、それはアストラル界に生きている。例えば、すべての犬はひとつの自我をアストラル界に有している。犬の場合、アストラル平面からの赤い流れが私たちの自我の器官がある場所に流れ込む。そして、この自我は犬の中により低次の欲望として現われる。人間の場合、その自我はこの場所から流れ出る。
 しかし、自我の器官が人の内部で発達させられるだけでは十分ではない。私たちは彼の中により高次の自我が流入し、彼をより高次の存在へともたらすための器官を見出す。そして、それは頭頂部からの垂直な線が鼻のつけ根あるいはその少し上を通る水平線と交わるところにある。この器官が松果腺である。人は世界の神的な自我と松果腺を通して結びつく。三番目により高次の器官、一六弁の蓮華は人の喉頭に、そして、四番目の器官、一二弁の蓮華は心臓の付近にある。人はその食物を賢く選択し、これらの器官が正しい仕方で発達できるようにしなければならない。彼の内的な発達にとって好ましいものは動物の生命過程、つまり、ミルクやそれから作られるものに結びついている。そして、植物にあっては、地上から太陽に向かって成長するものに結びついている。
 植物は逆転した人間である。太陽がまだ地球と結びついていたとき、植物の花は太陽に突き刺さり、根は外側に向いていた。太陽が地球を去った後、植物は反転し、彼らの根は地中に、その汚れのない流れは太陽に向かった。動物は半分反転した植物であり、人間は完全に反転した植物である。何故なら、人間は植物が太陽に向けるすべての器官をそれから逸らしているからである。人間の根、頭あるいは脳が太陽に向いている。植物、動物、そして人間は共に十字架を構成する。
太陽から逸らされている植物の地中部分は秘教的な発達にとって好ましくないが、上方に成長するあらゆるもの、特に植物が我々に与えるもので、我々がそれを破壊する必要のない果物や穀物は人間にとって好ましいものである。豆類、レンズ豆やその他の豆はエーテル体(窒素)を汚染する。ミルクが人間にとって好ましいのは、それが動物の生命過程に結びついており、動物がそれを自発的に与えるからである。一方、動物を殺すことによって得られる肉は秘教的な発達にとって悪いものであり、すべての塩もそうである。
 より高次の自我は、もし、人間が無私の生活とその肉体の浄化を通して自ら準備するならば、彼の中に入って行くことができる。内部に退くだけでは不十分である。最初、より高次の自我は人間の中にはなく、外部の自然、彼の年長の兄弟、人類の教師や指導者の中にある。それはそこから彼の中に入ってこなければならない。そのとき彼はあらゆる理性よりもさらに高い平安によって克服される。真理、叡智、果てしなきもの、おお神よ・・・という句が表すのはこれである。

  Satyam jnanam anantam brahma
  Anandarupam amritam bibharti
  Shatam sivam advaitam
  Om, shantih, shantih, shantih.