ルドルフ・シュタイナー

「精神的な探求における真実の道と偽りの道 (GA243)

トーケイ、ディヴォン、1924年8月11日−22日

佐々木義之 訳


 

第六講

秘儀参入への認識、覚醒意識と夢の意識

 

 これまで人間の魂の力から発達する様々な意識状態についてお話ししてきました。秘儀参入への認識は、私たちの世界認識がこれらの様々な意識状態に由来する、という事実に依存しています。

 今日は、人間の世界に対する関係がどのようにしてこれらの様々な意識状態によって決定されるかを確かめる、ということを提案したいと思います。まず最初に、たったひとつの意識レベル、すなわち日々の覚醒意識が日常生活にとっては十分なものである、ということを思い出してみましょう。私たちの時代には、通常の覚醒意識に加えて、さらにふたつの意識状態を発達させる可能性があるのですが、さしあたり、それらは知識を獲得するという直接的な目的に対して有効な判断力を提供することはできません。

 そのひとつは人間がその中で日々の生活における経験を回顧したり、精神的な存在の生活に関するかすかな暗示を受けるところの夢の意識状態です。しかし、通常の夢の生活の中では、これらの経験や暗示はあまりにもゆがめられ、お互いに相関しないグロテスクなイメージや象徴があまりにも多く混じり込んでいるために、それらから何も学ぶことはできないのです。

 もし、秘儀に参入する知識の助けを借りて、人間が夢を見ているときにはどのような世界にいるのかを知ろうとするならば、その答えはおよそ次に述べるようなものでしょう。人間は、通常の生活において、科学の研究対象であり、感覚によって知覚可能な体すなわち物質体を有している。これは人間の成り立ちにおける第一の構成体であり、誰もがよく理解していると想像していますが、あとで見ていくように、実際には、今日最も理解されていないものです。

 第二の構成体はエーテル体ですが、これについては私の著書、特に「神智学」の中でより詳細に記述されています。エーテル体もしくは形成力体はデリケートな組織であり、通常の視覚で見ることはできません。それを知覚できるのは、死者を死後数年にわたって追っていくことができる第一の意識状態を発達させた人だけです。エーテル体はその全体的な組織がより独立した物質体に比べて、より密接に宇宙に結びついています。

hell:明るい

orange:オレンジ色

guruen:緑色

rot:赤色

 人間の成り立ちにおける第三の構成体は−古い表現にこだわるのが最もよいように思われますが−アストラル体と呼ばれます。これは感覚には知覚不能な組織ですが、エーテル体と同じようにして知覚することもできません。もし、私たちが、今日、外的な世界を知覚するために用いている認識力をもって、あるいは、死者と接触する最初の超感覚的な意識による洞察をもってアストラル体を知覚しようと試みるならば、アストラル体が位置する場所に私たちが見い出すのは空虚あるいは真空以外のものではありません。

 要するに、人間は感覚によって知覚可能な物質体、既に示されたような仕方で行う集中や瞑想を通して発達させることができる力に基づくイマジネーションによって知覚することができるエーテル体を有しています。けれども、これらの力を借りてアストラル体を知覚しようとしても、私たちが出会うのは虚無、何もない空間です。この虚無が内容で満たされるのは、私が記述した空になった意識を達成するとき、すなわち、感覚印象が忘れ去られ、思考や記憶が沈黙させられても、なおその存在を意識するというような仕方で、十全なる覚醒意識もって世界に直面するときだけです。そのとき、私たちは、この虚無の中には私たちの最初の精神的な乗り物、人間のアストラル体があるのだということを知るのです。

 人間の組織を構成するものにはさらに自我そのものがあります。私たちが自我を知覚するのは空の意識を段々と発達させるときだけです。

 私たちが夢を見るとき、私たちの肉体とエーテル体は精神世界に滞在するアストラル体と自我から引き離されているのですが、もし、私たちが通常の意識だけを有しているとすれば、アストラル体と自我だけで知覚することはできません。私たちが周囲の世界において外的な印象を知覚することができるのは、肉体が眼や耳を付与されているからです。現在の人間の進化段階においては、アストラル体や自我は、肉体と異なり、通常の生活においては、眼や耳を付与されていないのです。ですから、人間が肉体とエーテル体から出て夢の状態にはいるとき、眼と耳に去られた肉体が物理世界に残されたかのように、まわり中が暗くなり、何も聞こえなくなるのです。けれどもアストラル体や自我はいつまでも器官を持つことなく、つまり魂の眼や耳なしに留まるように意図されていたわけではありません。私が本の中で述べたような精神的な訓練を通して、これらの精神的な器官をアストラル体や自我の中に目覚めさせることができます。したがって、秘儀参入に伴う洞察を通して、精神的な世界をのぞき見ることが可能になるのです。そのとき、人間は、肉体とエーテル体から離れ、ちょうど肉体とエーテル体の中で物理的なものを、そして、ある意味でエーテル的なものを知覚するように、精神的なものを知覚します。この洞察を達成する人が、そのとき、秘儀参入を達成するのです。

 さて、普通、夢見る人の立場とはどのようなものでしょうか? 眠りに落ちる過程を具体的に想像してみて下さい。肉体とエーテル体がベッドの上に取り残される一方、アストラル体と自我は物理的な乗り物から抜け出します。この瞬間、アストラル体はまだ肉体とエーテル体に同調して振動しています。アストラル体は一日中眼や耳のあらゆる内的な活動、あるいは、肉体やエーテル体の機能における意志の働きの中に参加していました。アストラル体と自我はこれらのすべてに与っていたのです。それらが体を去るとき、振動は継続します。その日の経験は、それらの振動の継続により、周囲の精神的な世界と接触することになるのですが、そこから生じるのは外的な精神世界と振動し続けるアストラル体のひどく混乱した相互作用です。人はこのすべてに捉えられ、その混乱を意識します。彼が携えていったもののすべては、彼に衝撃を与えた後、振動しつづけながら夢になるのです。

gruen:緑色

rot:赤色

hell:明るい

orange:オレンジ色

 夢が現実の理解にほとんど貢献しないことは明らかです。秘儀に参入した人の立場とはどのようなものでしょうか? 彼は、肉体とエーテル体から抜け出すとき、持続する振動やその名残を抹消することができます。ですから、彼は肉体とエーテル体から進み出てくるものすべてを抑制するのです。さらに言えば、秘儀に参入する人は、集中、瞑想、そして空になった意識を通して、魂の眼や耳を獲得しています。彼は今や、彼自身の内部で起こっていることではなく、彼の外で、精神的な世界の中で起こっていることを知覚するのです。彼は今や夢の代わりに精神的な世界を知覚し始めます。夢の意識は精神的な知覚に対応していますが混乱した対応物なのです。

 秘儀参入者がこの内的なアストラル体の器官、超感覚的な視覚と超感覚的な聴覚を初めて獲得するとき、彼は自分が肉体とエーテル体に発するこれらの残響やその名残を抑制するための絶え間ない努力と衝突の中にあるのを見いだします。彼がイマジネーションの世界に入るとき、つまり、精神的なものについての先験的な知覚を獲得するとき、夢が自らを主張するのを防ぐための絶えざる戦いがあります。彼を惑わし、夢のようなファンタジーへと解消させようとするものと精神的な世界の真実を表現するものとの間には絶え間ない相互作用があるのです。

 秘儀に参入しようとする人は誰でもいつかはこの衝突について熟知するようになります。彼は精神的な世界に意識的に参入しようとする瞬間、再び生じる物理的な世界の残映、精神的な世界についての真の像に侵入してくるこの妨害的なイメージを経験する、ということに気づくようになるのです。この強烈な内的衝突を克服することができるのは、忍耐と努力によってのみです。

 さて、もし、夢のイメージが私たちの意識に溢れるのにあまりにも安易に満足するならば、私たちは、精神的な世界の現実に参入する代わりに、容易に私たち自身を幻想の世界の中で夢を見る人にしてしまうでしょう。実際、秘儀に参入することを望む人は知的であると同時に極端に強い自制心を持っていなければなりません。そのため彼には何が求められるかを想像してみて下さい。もし、私たちが精神的な探求について、つまり、精神的な世界に到達するための方法について語るべきであるならば、これらのことがらに注意しなければなりません。もし、私たちが精神的な世界についての理解に向けて第一歩を踏み出すことを望むならば、その使命に対する真の熱情が示されなければならないのです。内的な昏睡、内的な無関心や怠惰はその達成のための途上にある障害物です。私たちの内的な生活は活動的で、生き生きとした反応を示さなければなりません。しかし、白日夢の中で自らを失い、幻想の糸を紡ぎ出すという危険があるのです。私たちは、一方では、想像力の翼に乗って天空を駆けめぐることができなければならないのですが、他方では、慎重さと真摯な判断力によってこの内的な活動性と応答性を沈静化させることができなければなりません。

 秘儀参入者はこれら両方の性質を有していなければならないのです。単に自分の感傷にふけることと同様、知性の支配に屈したり、すべてを理屈でかたづけるのも望ましくありません。私たちはこれら両極端の間で釣り合いを取ることができなければなりません。私たちは夢を夢見ることができると同時に、地上に足をつけていることができなければならないのです。私たちが精神世界に参入するときには、私たちは創造的なイマジネーションのダイナミックな世界に参加しながら、同時に自分自身をしっかりとコントロールするべきです。私たちは豊かなイマジネーションに恵まれた詩人としての受容性を有しながら、その誘惑に負けないようにするのです。精神的な知識を求めるときには、創造的な衝動によっていつでも点火されると同時に、ファンタジーの世界へと流されないように、実際的な常識によって自分をコントロールすることができなければなりません。そうすれば、私たちは、幻想の餌食になることなく、精神的な現実を経験することになるでしょう。

 この内的な魂のあり方こそが精神的な探求においては決定的に重要なのです。私たちが夢の意識についてよく考え、それが精神的な世界から混乱したイメージを魔法のように出現させるものであるということに気づくとき、私たちは同時に、精神的な知識を獲得するためには、夢のような状態に留まろうとする私たちの個性のすべての力が魂の活力として加わらなければならない、ということにも気づくのです。私たちはそのとき初めて、精神的な世界に参入するということが何を意味するのかを知るのです。私は、夢が精神的なものを魔法のように出現させる、と言いました。このことは、夢の意識が体的な生活から導かれる像をも魔法のように出現させる、という叙述に矛盾するように思われるかも知れません。けれども体は単に物理的なものなのではなく、精神的なものに完全に浸透されているのです。おいしそうなごちそうが目の前に出されて、それを食べようとするけれども、ポケットにはそれに見合うお金が少しもない、というような夢を誰かが見るときには、彼の消化器官の真に精神的、アストラル的な内容が食事という象徴化されたものにおいて示されているのです。精神は体的なものの中にその座を有しているという事実にも関わらず、夢の中にはいつでも精神的な要素が存在しています。夢はいつでも精神的な要素を含んでいるのですが、それは体に関係した精神的な要素である、ということが非常に多いのです。この事実に気づくことが必要です。

 蛇の夢を見るとき、そのとぐろは消化器官や頭部の血管を象徴している、ということが理解されなければなりません。私たちはこれらの秘密へと貫き至らなければならないのです。それは、魂の中で発達させられるこれらの微妙で親密な要素についての理解に至ることができるのは、私たちが秘儀参入の科学を通して精神的な探求に取りかかり、これらのことがらに綿密な注意を払うときだけだからです。

 人間が日常生活の中で通過する第三の段階は夢のない眠りです。その状態を思い出してみましょう。肉体とエーテル体がベッドに横たわり、アストラル体と自我組織はこれらの外にあります。肉体とエーテル体からの残響やその名残は止みました。人間が精神世界に住むことができるのはアストラル体と自我の中においてのみですが、必要な器官がないために、何も知覚することができません。彼は闇に囲まれて眠っています。夢のない眠りとは、自我とアストラル体の中に生きながら、私たちを取り囲む広大で壮大な世界を知覚できない、ということを意味しています。目の見えない人の場合を取り上げてみましょう。彼は色や形についての知覚を有していません。これらに関する限り彼は眠っているのです。さて、知覚するための器官を持つことなくアストラル体と自我の中に住んでいる人を思い描いてみましょう。精神との関係では、彼は眠っています。夢のない眠りの状態にある人間とはそのようなものなのです。集中や瞑想の目的はアストラル体と自我組織の中に精神的な眼や耳を発達させることです。そのとき、彼は彼を取り巻く精神の豊かさを目の当たりにし始めるのです。彼は、通常の意識状態においては眠りの中で失われ、瞑想や集中を通してその眠りから目覚めさせるべきものによって精神的に知覚します。それ以外の場合には配置されていない要素が組み込まれなければなりません。そのとき彼は精神的な世界をのぞき込み、通常は彼の目や耳を通して物理的な世界の生活に与るように精神的な世界の生活に与るのです。これは秘儀に参入する真の認識です。誰かを外的な方法によって精神的な知覚に向けて準備させることはできません。すなわち、彼はまず、通常は非常に混乱した彼の内的な生活を効果的に組織化することを学ばなければならないのです。

 さて、人類の歴史においては、誰かを選んで秘儀参入に向けて準備させる、ということがいつの時代でも行われてきました。しかし、極端な唯物主義の時代には、つまり15世紀以来今日に至るまで、これはある程度中断されています。この間、秘儀に参入するということの真の意義は忘れられました。人々は認識への欲求を秘儀への参入なしに満足させることを望み、そのため、物理的な世界だけが適正な探求の場であると徐々に信じるようになったのです。しかし、実際のところ、物理的な世界とは何なのでしょうか? 私たちがその物理的な側面だけを考慮したとしても、それと折り合いをつけることはできないでしょう。物理的な世界はそれを満たす精神を理解できたときにはじめて理解することができるのです。人類はこの認識を再び取り戻さなければなりません。私たちは今、岐路に立っています。世界は分裂し、ますます混乱の様相を呈しています。けれども、私たちは、この混乱、逆巻く闇、すべてを破壊しようとする暗い熱情のただ中で、人間の中に新しい精神性を目覚めさせようとして苦闘する精神的な力の存在に気づいている先験的な認識を有する人がいる、ということを知っています。そして、人智学に向けて準備するということは、私たちの唯物的な時代の大騒ぎのただ中でもまだ聞くことができるこの精神の声に耳を傾ける、ということなのです。

 人間は、いつの時代にも、精神的な世界を知覚するというような仕方でその人間としての組織を発達させようと努力してきた、と私は言いました。時代によって条件は変化しますが、古代カルディア時代、あるいはブルネットー・ラティーニの時代を振り返ると、人間は今日に比べて肉体やエーテル体にもっとゆるやかに結びつけられていた、ということが分かります。人間がそれらにしっかりと固定される、というのは当然の成り行きです。つまり、それは私たちの今日の教育からいって避けられないことなのです。いずれにしても、多くの場合、歯が生え替わる前に読み書きを学ぶように強いられるというのに、どうして精神的な存在たちとの交流を期待することができるというのでしょうか? 天使や精神的な存在たちは読むことも書くこともできないのです。読み書きは人間進化の過程で、物理的な条件に対応して発達してきました。そして、もし、私たちの存在全体が純粋に科学的な探求へと方向づけられているならば、私たちが肉体やエーテル体から退くことは明らかに困難であるはずです。

 私たちの時代は、私たちが肉体とエーテル体から離れているときには、いかなる精神的な経験をも持つ可能性がない、というような方法で、私たちの文化生活全体を秩序づけることに一定の満足を見いだしているのです。私は私たちの時代の文化を罵倒したり非難したりするつもりはありません。それはその時代の不可避的な表現なのです。後で、その意味について議論するつもりですが、さしあたりは、ものごととはそのようなものであるとして受け入れられなければなりません。

 太古の時代にあっては、アストラル体と自我は、目覚めの状態においてさえ、今日に比べて肉体とエーテル体にもっとゆるく結びついていました。秘儀に参入した人たちもまた、彼らにとって自然であった体のゆるい結びつきに頼っていました。実際、はるかな過去においては、ほとんどすべての人が秘儀に参入することができたのですが、人間の地位を越えて上昇することが誰にでも可能であったのははるかな過去の時代、古代インドや古いペルシャの時代だけだったのです。

 そして、後の時代においては、秘儀に参入するための候補者の選定は、肉体とエーテル体から退くことにほとんど困難を感じない人たち、そのアストラル体と自我が比較的高度の独立性に恵まれていた人たちの間に限られました。秘儀に参入するためには一定の条件があらかじめ必要とされました。このことは、彼の能力に見合った最高の段階の秘儀に参入することを妨げるものでは全くありませんが、ある地点を越えて成功に導かれるかどうかは希望者がアストラル体と自我の中で容易に独立性を達成するか、あるいは単に苦労して達成するかにかかっていました。そして、このことは彼の成り立ちと自然の配列によって決定されました。世界の中へと生まれて来る人間にとって、誕生から死までの世界に依存することはある程度避けられないことなのです。

 ここで、今日の人間も、秘儀参入に乗り出すとき、同様の限界に左右されるのか、という疑問が生じますが、ある程度そういうことがあります。この講義では、精神的な世界へと導く真実の道と偽りの道について十分かつ明確な説明を加えるつもりですから、今日の秘儀参入への途上に横たわる困難について指摘しておこうと思います。

 古代の人間は、秘儀参入者になるにあたって、その自然に備わった資質により依存していました。現代人もまた、秘儀参入の入り口にまで連れていかれることはできます。実際、適切な魂の訓練を通して、精神的な視覚を発達させ、精神的な世界を知覚することができるように彼のアストラル体と自我組織を形成するができるのです。しかし、この視覚を完全なものにし、完成させるためには、今日でもなお、何か別のもの、極端に微妙でデリケートな何かに依存しているのです。私にできるのは一歩一歩先に進むことだけですから、今日これから私がお話しすることについて、次の講義の内容を把握する前に、最終的な結論を出さないよう皆さんにお願いしなければなりません。

 今日の秘儀参入においては、人はある程度年齢に依存しているのです。人生に期待がもてる37才で秘儀参入を始める場合を取り上げてみましょう。彼は瞑想や集中、その他の修行を、誰かの指導の下、あるいは何かの教本に基づいて、自分で実行し始めます。瞑想やあるいは何らかのテーマを繰り返し実行することで、彼はまず第一に地上における彼の生活を振り返ることができる能力を獲得します。彼の地上生がひとつのまとまった織物の形で彼の内的な目の前に現れます。ちょうど物体が三次元空間の中に置かれているように、つまり、椅子の前二列とそこに座っている人たち、向こう側には机、その後ろの壁というように私たちはすべてを遠近法によって、同時性の中で見るのです。このように、私たちは秘儀参入のある段階において、「時間」をのぞき見ることになります。時間の経過が空間的な印象を与えるのです。さて、私たちは37才のときに自分を振り返ります。私たちは36才のとき、35才のとき、そして、誕生のときに至るまで何らかの経験をしてきました。私たちは私たちの前にひとつの織物を時代を遡りながら見ます。

 今、秘儀参入のある段階において、ある人がその人生を逆向きに振り返ると仮定してみましょう。37才では、彼は誕生からおよそ7年目の歯の生え替わりの時期まで、そして、7才から14才、つまり思春期までを振り返ることができるでしょう。そして次に、14才から21才、そして37才までの残りの人生を振り返ることができます。彼は彼の人生をパノラマのように、いわば時空間的な見通しにおいて探求することができます。彼が空になった目覚めの意識から生まれる意識をこの知覚に加えることができるとき、ある種の知覚力が彼を貫いて閃くのです。彼は洞察を獲得するのですが、その洞察は非常に広範な形態を取ります。誕生から7才までの経験、14才から21才、そしてその後の時代の経験は彼の中に異なる反応を喚起します。それぞれの時代が独特の反応を示し、それ自体が独自の視覚力を有しているのです。

 さて、63、4才の人について考えてみましょう。彼は37才より後の時代を振り返ることができます。21才から42才までは比較的均一のように見えます。それに続く時代はもっと違っています。42才から49才まで、49才から56才まで、そして56才から63才までの時代で彼の知覚には重要な違いがあるのです。これらすべての時代は彼の成り立ちにおける枢要な部分になっています。それらは彼の地上における人生の精神的な側面を表しているのです。もし、彼がこの内的な視覚を発達させるとすれば、彼は彼の様々の洞察がある特定の年代における彼の存在レベルに依存している、ということを理解するでしょう。その最初の7年間は7才から14才までの年代とは異なる洞察を彼の中に目覚めさせます。14才から21才までの思春期、21才から42才までの年代はさらなる相違を、そして、もっと後の時代に属するいくらか異なる洞察力がそれに続きます。

 私たちの人生の経験についての記憶像を有する能力を獲得するとともに、その記憶像を消し去った空の意識から導かれる洞察を私たちが達成したと仮定してみましょう。今やインスピレーションの力が働き始め、その結果、私たちは、もはや物理的な目を通してではなく、精神の眼である新しい視覚器官を通して私たちの人生の期間を探求します。私たちは、もはや様々なできごとがあった人生の期間の像を魔法のように出現させるのではなく、インスピレーションを通して、精神的な眼や耳でそれらを知覚する地点へと達したのです。あるときは7才から14才までの人生の期間を超感覚的に眺め、別のときは49才から56才までの期間を、ちょうど外的な世界で眼や耳を使って聞いたり知覚したりしたように、超感覚的に聞くのです。インスピレーションの世界においては、7才から14才までの期間、そして42才から49才までの期間から導かれる力が使われます。この世界においては、様々な人生の期間が異なる認識器官になるのです。このように、私たちの視覚の範囲はある程度私たちの年齢に依存しています。37才では、秘儀参入の経験を一次情報として語ることが完全に可能なのですが、63才になれば、私たちはより深い知識をもって語ることになります。何故なら、その年代では別の器官を発達させているからです。人生の期間が器官を創造するのです。さて、ブルネットー・ラティーニやアラヌス・アプ・インスリスのような人物を本に載っているような情報からではなく、超感覚的な知識から記述することを提案すると仮定してみましょう。(これらの例は、ここ数日にわたって既にお話ししていますから、皆さんよくご存じのはずですね。)もし、私たちが37才になったとき、彼らのことを描写しようとするならば、目覚めた眠りの意識の中で彼らと精神的に関係している、ということを発見するでしょう。隠喩的に言えば、私たちは私たちの仲間の人間と語るようにして、彼らと語り合うことができるのです。そして、不思議なことに、精神的なことがらについて彼らと語ることができるのは、現在の叡智と精神性のレベルからだけなのです。そのとき、私たちはいかに多くのことを彼らから学ぶことができるかを知ります。私たちは彼らに耳を傾け、彼らが伝えようとすることを信頼して受け入れなければなりません。

 さて、皆さんは、精神的な世界において、ブルネットー・ラティーニのような人物と共にあるということが軽々しいことではない、ということにお気づきでしょう。けれども、もし、私たちに必要な準備ができているとすれば、私たちは自分が夢に幻惑されているのか、あるいは精神的な現実の中にいるのかを決定することができます。そのため、私たちが受け取る伝達を評価することは可能なのです。

 では、私たちが37才のときに精神的な世界においてブルネットー・ラティーニと語り合うと想像してみましょう。もちろん、このことは文字通り受け取られるべきではありません。彼は私たちに多くのことを語るでしょう。そして、多分、私たちはもっと正確で詳細な情報が必要だと思うかも知れません。それに対して、彼は、「その場合、我々は現在の20世紀から19、18世紀、そして私がダンテの師として生きた世紀にまで遡って足跡を辿らなければならない。もし、あなたがこの道を通って私について来ることを望むならば、あなたがもう少し歳を取るまで、つまり、あなたがあと何年かの年月を後にするまで待たなければならない。そのとき、私はすべてを話し、あなたの知への渇きを満たすことができるだろう。あなたは高次の秘儀参入者になることができるが、現実には、精神的な意欲だけでは過去への道を通って私についてくることはできないのだ。」と言うでしょう。と申しますのも、このことが可能であるためには、皆さんはもっと歳を取っていなければならないからです。もし、皆さんが問題の人物とともに精神世界へと障害なく帰還することを確実なものにしたいならば、皆さんは少なくとも42才を通過して60才に達していなければならないのです。

 これらのことがらは人間存在のより深い側面とそれらが若年期や老年期において果たす重要な役割を皆さんに示すことになります。何故ある人は若死にし、別の人は熟年まで生きるのかというようなことを私たちが理解することができるのは、これらのことがらに注意を払うときだけなのです。このことについては後でもう少しお話しいたします。

 人間が発達していくとき、いかに彼が精神的な世界についての知覚をますます深め、広げていくかを見てきました。つまり、ブルネットー・ラティーニのように肉体を脱いだ魂として精神世界にある存在との関係が、彼の進化状態とともに、すなわち精神的な知覚のために使用される器官が若年期に発達させられたものであるか、あるいは老年期に発達させられたものであるかによっていかに変化するかが示されました。

 世界の俯瞰的な探求と、そのようにして人間の魂の前で展開するその進化はその他の領域に拡張されることができます。問題は、人間の意識、人間の洞察をどのようにして拡張し、それに別の方向性を与えるかということです。今日はそのようなひとつの方向性を示し、そのさらなる詳細については次の講義で述べることにします。

 私たちは、地上の生活における通常の意識の中で、誕生から死までの間の地球の環境についてだけ知っています。もし、私たちの混沌とした夢の生活に終わりがあり、私たちが、通常の意識ではなく、深く夢のない眠りの状態において知覚を有することができていたとすれば、私たちはもはや私たちの周囲に、純粋に地球のものであるところの環境を経験してはいなかったでしょう。私たちは、実際、通常とは異なる知覚と意識の状態を付与されていたことでしょう。

 さて、私たちの日常意識が私たちの身近な環境と関連している、と考えてみましょう。私たちは地球の内部をのぞき見ることはできませんから、私たちを直接とりまく環境が通常の意識の領域です。宇宙に存在するその他のあらゆるもの、太陽や月、そしてその他のすべての星はこの領域へと輝き込みます。太陽と月は、他の天体と比較して、宇宙におけるそれらの存在をより明確に示すものを送り込んでいます。もし、物理学者たちが彼らのやり方で−と申しますのも、彼らは私たちのアプローチを考慮しようとしないからですが−月と太陽の領域において卓越している状態を経験できるとしたら、驚愕することでしょう。と申しますのも、天文学や天体物理の教科書に書いてあることは全く的外れだからです。それらは非常に漠とした示唆を与えるだけです。私たちが、通常の生活において、誰かと知り合いになることを望み、後で話す機会を得たならば、私たちは通常、この人物については漠とした印象しかない、彼はほとんど視界から消えるほど遠くに退いているに違いない、とは言いません。そのような場合には、私は彼についてもっとはっきりとした印象を持ち、彼の様子を記述するはずです。

 もちろん、物理学者に選択の余地はありません。当然の結果として、彼らは遠く離れたところから星々を記述することができるだけです。けれども、変化し、拡大した意識は私たちを星の世界へと引き上げます。そして、私たちがこのことから最初に学ぶのは、通常の生活において語るのとは全く異なる方法でこれらの星の世界について語る、ということです。

 私たちは、通常の意識の中で、私たち自身がこの地上に立っているのを見ます。そして、夜空の月は私たちの上にかかっています。別様に見るためには、私たちは異なる種類の意識の中に入っていかなければなりません。そして、それにはときとしてかなりの時間がかかります。私たちがこの意識を達成し、私たちの経験、すなわち誕生から7才の歯牙交代期までに通過したあらゆることを、死者と連なる意識、つまり、インスピレーションを達成し、それによって内的な視覚力となった意識をもって知覚することができるとき、私たちは私たちの周囲に完全に異なる世界を見ます。通常の世界はぼんやりとしてはっきりしないものになります。

 この別の世界とは月の領域です。私たちがこの新しい意識を達成するとき、私たちはもはや月を独立した実体としては見ません。私たちは、実際、月の領域に住んでいるのです。月の軌道は月の領域の最も遠い境界を通っています。私たちは私たち自身が月の領域の内部にいることを意識します。

 さて、もし、8才の子供が秘儀に参入することができ、その人生の最初の7年を振り返ることができたとしたら、その子はこのような仕方で月の領域に住むことができるでしょう。実際、子供はまだ後の時代の影響によってだめになっていないので、月の領域に入っていくことにほとんど困難を感じないでしょう。

 このことは理論的には可能ですが、もちろん、8才の子供を秘儀に参入させることはできません。

 

Sonne 太陽

bis42 42まで

Mars 火星

Mond 月

weiss 白色

Merkur 水星

rot 赤色

gelb 黄色

Jupiter 木星

bis 56 56まで

Mars 火星

bis 49 49まで

0-7

7-14

Saturn 土星

bis 63 63まで

Erde 地球

guruen 緑色

Venus 金星

bis 21 21まで

 私たちが、最初の人生期である誕生から7才までの期間から導かれる力を精神的な視覚のために用いるとき、私たちは通常の意識によって知覚される領域とは極端に異なる月の領域に入っていくことができます。ひとつの類推が論点を説明するのに役立つでしょう。

 今日の胎児学では、生物学者たちは胎児の発達をその最初期の段階から研究しています。胎児の発達のある段階で、外縁部のある一点において細胞膜の厚みが増す、ということが起こります。次に包接が起こって一種の核が形成されます。ところが、このことは顕微鏡ではっきりと見ることができる一方、これは胚珠であり、胎児に過ぎないのだ、と言うことはできません。何故なら、他の部分もまた枢要な部分だからです。

 同じことが月やその他の星にも当てはまります。私たちが月として見ているものは単なる一種の核であり、その全領域が月に属しているのです。地球は月の領域の中にあります。もし、胚珠が回転すれば、この核もまた回転するでしょう。月の軌道は月領域の境界線を辿っているのです。

 ですから、これらのことがらについてまだなにがしかのことを知っていた古代人たちは、月についてではなく、月領域について語りました。私たちが今日見るような月は、彼らにとっては最も遠い境界にある一地点に過ぎませんでした。この点は毎日その位置を変え、28日間かけて私たちのために月領域の境界線を辿ります。誕生から7才までの私たちの内的な経験がインスピレーション的な視覚になるとき、私たちは、私たちの地球についての知覚を徐々に失うとともに、月領域に入っていくための力を獲得するのです。

 人生の第二期、歯牙交代期から思春期までの経験がインスピレーション的な視覚に変化させられるとき、私たちは第二の領域である水星(訳注:金星のこと)領域を経験します。私たちは地球とともに水星領域に生きるのです。水星領域での経験を見ることができるのは、7才から14才までの地上における人生の経験を意識的で明確な知覚力をもって振り返るとき、私たちが私たちのために創造するところの視覚器官によってだけです。思春期から21才までの期間から導かれるインスピレーション的な視覚力をもって、私たちは金星(訳注:水星のこと)領域を経験します。古代人たちは私たちが想像するほど無知ではありませんでした。彼らは彼らの夢のような認識力によって、これらのことがらについて多くのことを知っていました。そして、彼らは、私たちが思春期の後に経験する惑星システムに、この時代における性的な目覚めに関連した名前を付与したのです。

 そして、21才から42才までの期間における私たちの経験を意識的に振り返るとき、私たちは私たちが太陽領域にいることを知ります。

 それぞれの人生期が内的な生活のための器官に変化させられるとき、それらは私たちに宇宙的な意識を一歩一歩拡大させる力を付与するのです。

 私たちが42才になるまでは太陽領域について何一つ知ることができない、というのは真実ではありません。私たちは水星存在たちからそれについて学ぶことができます。何故なら、彼らはそれについて十分に知っているからです。けれども、その場合、私たちの経験は、超感覚的な教えを通して、間接的に私たちのところにやって来ます。自分自身の意識で太陽領域を直接経験するためには、つまり、その中に入っていくことができるためには、私たちは21才から42才までの期間を生きただけではなく、42才を越えていなければなりません。私たちは過去を振り返ることができなければならないのです。と申しますのも、秘儀が開示されるのは回顧的な探求の中でのみだからです。

 そしてさらに、私たちが49才までの人生を振り返ることができるとき、火星の秘儀が開示されます。もし、私たちが56才までの人生を振り返ることができるとすれば、木星の秘儀が明かされることになります。そして、深いベールに包まれているとはいえ、驚くべき輝きを発する土星の秘儀−その秘儀には、次の講義で見ていくように、宇宙の深い秘密が隠されています−が開示されるのは、私たちが56才から63才までに起こったできごとを振り返るときです。

 ですから、皆さんお気づきのように、人間とは実際、小宇宙なのです。彼は通常の意識では決して知覚されることのないこれらのことがらに関連しています。もし、月の力が誕生から7才までの間、彼の中で活動していなかったとすれば、彼は彼の人生を形づくったり、秩序づけたりすることができなかったでしょう。彼は後になってその影響を知覚します。もし、水星の秘儀が彼の中で活動していなかったとすれば、彼の7才から14才までの経験を再創造することはできなかったでしょう。同様に、もし、彼が金星領域に内的に関連づけられていなかったとすれば、14才から21才までの期間−もし、彼がカルマによってそれを受け取るように予め配置されていたとすれば、強力な創造力が彼に注ぎ込まれる期間ですが−における彼の経験

を再創造することもできなかったでしょう。そして、もし、彼が太陽領域に統合されていなかったとすれば、彼は21才から42才までの時代、つまり、私たちが若年から熟年へと通過していく年代についての成熟した理解や経験を発達させることができなかったでしょう。昔のシステムは非常に異なっていました。職人は21才になるまで徒弟として働きました。次に「旅する男」になり、最終的に「親方」になりました。こうして、21才から42才までの年代の内的な発達はすべて太陽領域に関係づけられていたのです。そして、56才から63才までの彼の衰退期における経験のすべては土星領域の影響に帰属させることができます。

 私たちは地球とともに7つの互いに貫き合う領域の中に存在しており、人生の経過にしたがって、それらの中に成長するとともに、それらに関連づけられるのです。誕生から死までの私たちの人生は、私たちを形づくる星の領域からの影響によって、当初のパターンからの変化を被ります。私たちが土星の領域に達するとき、私たちは惑星領域の存在たちがその慈悲によって私たちのために成し遂げるもののすべてを通過したことになります。そのとき、私たちは、秘教的な意味において、秘儀に参入した立場から惑星生活を振り返るところの自由で独立した宇宙存在、つまり、ある意味で、もはや以前の人生期からの強制に左右されない存在として船出するのです。これらのことがらについては、次の講義でさらにお話しする予定です。

(第六講・了)


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