ルドルフ・シュタイナー

ゲーテの自然科学論序説〜並びに、精神科学(人智学)の基礎〜

(GA1)

第17章

ゲーテ対原子論

佐々木義之訳


1.


 今日、19世紀の自然科学の発展については非常に多くのことが語られています。私は、この関連で本当に話すことができるのは、重要な科学的経験と、それがいかに実際の生活を変えたかということに尽きる、と信じています。しかし、現代の科学がそれを通して経験の領域を「理解」しようとしている基本的な概念ということになると、それらは不健全で厳密な思考(第6章及び第15章)には耐えられないだろう、と言わざるを得ません。この観点は、著名な化学者、ウィルヘルム・オストヴァルドによってごく最近表明されました。彼によると、

世界の内的な成り立ちについてどう思うか?と聞かれるとき、数学者から開業医に至るまで、すべての思慮深い科学者は、事物は動き回る「原子」から成り立っている、それらの原子とそれらの間で働く「力」とが究極の現実であり、それらから個別の事象が現われる、と言うだろう。我々は皆、これが物理世界を理解するための唯一の方法であり、原子の力学に立ち返らなければならない、と語られるのを何百回となく聞かされてきた。自然現象の多様性全体がそこから導かれ得るところの唯一の概念とは物質と動きである、と思われるのだ。人はこの観点を科学的唯物論と呼ぶだろう。

 私は前章で、現代の物理学者たちの基本的な観点は受け入れ難い、と書きました。オストヴァルドが同意して言うには、「この力学的な世界観は、それがそのためにデザインされた目的に寄与しません・・・それは、議論の余地がなく、よく知られ、そして認められた真実に矛盾しています。」これについての是認は続きます。私は、「私たちに自らを提示するような感覚知覚可能な世界とはその根底に実質的な基盤を持たない変容する知覚の寄せ集め」(第16章)であると言います。そして、オストヴァルドが言うには、

我々が物質について知っているあらゆることがらはその性質に関連している、ということに気づくなら、「ある物質がそのいかなる性質も欠きながら存在していると主張することは馬鹿げている」ということが明らかとなる。そのような純粋に形式的な仮定が役に立つのは、化学プロセスの一般的な事実の間の整合性、特に、物質の量論的な法則、そして、不変的な物質という思いつきの概念を打ち立てるときだけである。(編注:「科学的唯物論の克服」、リューベック、1895年9月20日)

 そして、本書の中では、「これらの考察は、知覚された世界の領域を道義的に『越えて』行くような自然についてのいかなる理論も不可能であると考えるよう私に強いるとともに、『感覚的な世界を自然科学の唯一の対象として』思い描くよう私を導いたものです。」(第15章)そして、オストヴァルドの講義では、

物理世界に関する我々の経験とは何か?明らかなのは、それは我々の感覚器官が我々に与える以上のものではない、ということである・・・科学の使命は「現実」を、つまり、もっともらしく、測定可能な性質を収集し、そして、それら相互の関係を見出すことによって、ひとつが与えられれば別のものが結果として生じるようにする、ということである。そして、これは、仮説的なモデルを仮定することによってではなく、測定可能な性質の相互に依存する側面を検証することによってなされなければならない。

 もし、私たちが、オストヴァルドは現代科学の観点から語っている、したがって、感覚世界の測定可能な側面だけを見ている、という事実を無視すれば、彼のここでの論点は私の論点と一致しています。つまり、「理論とは、目で知覚可能なものを包含するとともに、この領域の「内部」で相互関係を探求するものでなければなりません。」(第16章)
一般的な科学の知的な基盤に反対するオストヴァルド教授の講義におけるのと同じ戦いがゲーテの色彩論についての私の議論の中で挑まれています。しかし、確かなことは、(後で示すように)彼は彼が反対する科学的な唯物論者と同じ表面的な仮定から出発している、私が焦点を当てている概念はオストヴァルドの考えとは完全には一致しない、ということです。私は、現代の自然観の間違った基盤はゲーテの色彩論への不健全な評価のためである、ということもまた示しました。
現代の自然観についての私の議論をさらに詳細に進めていきましょう。この観点の健全性を評価するために、それが自らに設定した「目標」について考えてみたいと思います。デカルトの中には―不当にというわけではなく―現代の自然観が知覚可能な世界を判断するために採用した基本的な定式化が見られます。

物理的な事物をより詳細に考察するとき、それらの中には、私が「明確に」、そして「はっきりと」把握できるものはほとんどない。それらは大きさ、つまり、長さ、幅、奥行きといった広がりであり、広がりが終わることで結果として生じる形態であり、相互に関連した様々な形態を持つ物体の位置であり、動き、つまり、位置の変化である。そして、それには物質、持続、そして数がつけ加えられるだろう。しかし、光、色、音、匂い、味、熱、冷たさ、そして、その他の感触(なめらかさ、粗さ)が私の心に入って来るとしても、それはあまりにも「曖昧」で「混乱」しているため、それらが本当なのか、あるいは偽りなのかを、言い換えれば、これらの性質について私が持つアイデアは本当に真の対象についてのアイデアなのか、あるいは、決して存在しないはずの想像上の事物を表現しているに過ぎないのかを決めかねるのである。(「省察」第3部)

 デカルトによるこの論述は今日の科学者にとって習慣的な考え方となったものを表現しています。そのため、彼らにとって、その他の考え方は本当に考慮する価値のないものとなっています。彼らは、光は数学的に表現できる運動プロセスの結果として知覚される、と言います。彼らは光が現われると、それを振動にまで辿り、そして、1秒当たりの波数を計算します。あらゆる知覚を数学的に表現できる関連性にまで辿ることができるとき、感覚世界全体を説明することができるであろう、と信じられているのです。この観点によれば、そのような説明を提供できた心は自然界についての考え得る最も高次の洞察を達成している、ということになります。そのような科学者の良い例であるデュ・ボア−レイモンは「そのような心は我々の頭髪でさえ数え上げ、1羽の雀でさえそれに知られることなく地面の上に落ちることはないだろう」(「自然科学の限界について」、1882年)と述べています。世界を数学的に処理することは一般的な科学の理想となっているのです。
 現代の科学者たちが世界を説明するために用いることができる要素の中に力そのものを組み入れているのは、仮想的な物質の各部分にとって、外的な力の介入なしに動き始める方法はない、という理由からです。デュ・ボア−レイモンが、「自然を知るということは・・・物体『内部』の変化を、時間から独立したそれらの中心的な力によって引き起こされる原子の運動にまで辿ることを意味している。それは『原子の力学』の意味で自然のプロセスを理解する、ということである。」(同著)と述べているように、力の概念を導入することによって、数学は力学になります。
 今日の哲学者たちが独立して考えるための勇気を全く失っているのは、科学者たちの影響をあまりにも深く受けているからです。彼らは科学者たちの観点を躊躇なく受け入れます。最も著名なドイツの哲学者の一人であるウィルヘルム・ヴントは、「物質の質的な不変性からして、あらゆる自然のプロセスは結局のところ動きから構成されている、という原則にしたがえば、物理学の目標とは、その『応用力学』への翻訳ということになる。」(論理学、1830-1833年)と述べています。
デュ・ボア−レイモンは、「そのような解決法(つまり、自然のプロセスを原子の力学に還元すること)がいつも因果論的な説明に対する我々の必要を一時的に満足させるだけに留まる」のは心理学的な経験の問題である、と考えています。確かに、デュ・ボア−レイモンにとって、それは経験の問題かも知れません。しかし、物理世界についてのそのようなありきたりの説明では満足できない人たちがいる、ということも言っておく必要があります。そのような人物の一人がゲーテです。誰であれ、因果論的な説明に対する欲求が自然のプロセスを原子の力学に還元することで満足させられる人にとっては、ゲーテを理解することは不可能でしょう。

2.


 寸法、形、位置、動き、力といったものは、例えば、光、色、音、匂い、味、冷たさ、あるいは熱と同様、感覚的な知覚です。事物の大きさを考えるとき、それはもはや「現実の」事物を扱っているのではなく、知的な抽象化物を扱っているのです。感覚的な経験から抽出されたものに対して、感覚的に知覚可能な事物そのものに対して以上に、より高次の現実性を帰属させることに意味はありません。空間的あるいは数的な関連性を用いることのメリットは、ひと目でそれらを概観することができるという、より大きな容易さと簡便性にあります。数学という科学の確かさはそのような容易さと概観性とに由来しているのです。現代の科学は物理的なプロセスをいつも数学的、力学的な関係に還元しますが、それは容易さと簡便さとをもってそれらを取り扱うことができるからです。人間の思考はどちらかというと便利さを好むものなのです。そのことは上記で引用したオストヴァルドの講義でも表現されています。この科学者は物質と力をエネルギーで置き換えようとします。彼の言葉を聞いてみましょう。

我々の感覚のひとつが活性化するとき、その決定的な要因とは何か?どんなにそれを眺めてみても、見つかるのは「我々の感覚器官がその環境とそれら自身との間のエネルギーの差に反応している」ということだけだ。もし、我々が生きている世界の気温が我々の体温といつも同じであったならば、我々は決して暖かさについて知ることがなかっただろう。ちょうど我々がその下で生きている一定の大気圧を経験することがないように。圧力が変化したときにのみ、我々はそれに気づく。誰かがあなたを棒で叩くと想像してみなさい!あなたが感じるのは棒か、それともエネルギーか?答えはエネルギーにならざるを得ない。何故なら、振り回されさえしなければ、棒は世界で最も無害なものなのだから。しかし、あなたは応えるだろう、我々は静止している棒にぶつかるかも知れない、と。その通り。しかし、我々が経験するのは、私が言ったように、我々の感覚器官とのエネルギーの差であり、この観点からすれば、棒が我々にぶつかるのも、我々がそれにぶつかるのも何ら変わりはない。もし、それらが同じ方向に同じスピードで動いていたとしたら、我々の感覚という観点からして、もはや棒は存在しない。何故なら、それは我々に接触することも、エネルギーの変化を生じさせることもないのだから。

 ここでオストヴァルドは、知覚の領域から「エネルギー」を、つまり、エネルギーでないあらゆるものからエネルギーを分離しているのです。彼はあらゆる知覚を知覚世界における単一の特徴―エネルギーとしての表現―へと還元し、そして、それによってひとつの抽象性へと還元しています。オストヴァルドがいかに現在の科学的な習慣に捕えられているかは明白です。もし、私たちが彼のアプローチにおける正当性について彼に尋ねるとしたら、彼が見つけることができる唯一のものは、彼の因果論的な説明に対する必要が自然のプロセスをエネルギーの相互交換に還元することで満足させられるのは心理学的な経験上の事実である、ということだけです。実際、デュ・ボア−レイモンが原子の力学に頼るのも、オストヴァルドがエネルギーの相互交換に頼るのも同じことです。いずれにしても、心的な便利さに対する人間の必要が満足させられることになるのです。
 オストヴァルドは彼の講義を次のように締めくくっています。

自然を理解するために、エネルギーがどんなに必要かつ有用であったとしても、物理的な世界を説明するのに「十分」なものであるのか?あるいは、現在知られているエネルギーの法則をもってしても完全には説明できない現象があるのか?・・・私は私の今日の発表におけるその他の部分に対してと同様の責任を持ってこの問いに答えることが必要であると感じているのであるが、強調したいのは、その答えは「ある」である!ということだ。私の意見では、(物質的、あるいは力学的な説明に対して)エネルギーの観点から世界を説明することの途方もない利点とは無関係に、既知のエネルギーの法則によっては説明することが「できない」いくつかの場合が既に存在している。それらはそれらを越えた原則の存在を示唆している。エネルギー論はそれらの新しい法則と共存しながら生き残るであろう。しかし、それは将来、現時点で我々が考えているような自然現象を把握するための最も包括的な原則としてではなく、恐らく、「今日ではその形態をほとんど想像することもできないような」もっと一般的な関連性の特殊な表現として理解されていることだろう。

3.


 もし、私たちの時代の科学者たちが彼らの仲間内ではない者たちの著作をも読んでいたとすれば、オストヴァルド教授がこのような論述を行うことは決してなかったでしょう。と申しますのも、私は既に1891年に、ゲーテの色彩論のための序論の中で、私たちはそのような「形態」を非常によく想像することができ、未来の科学はゲーテの基本的な科学上のアイデアを洗練させる使命を持つことになるだろう、と書いたからです。
 私たちは物理的なプロセスをエネルギーの状態に「還元する」ことができない以上に、原子の力学に「還元する」ことはできません。そのような還元主義が役に立つのは、私たちの注意を現実の感覚的世界の内容から逸らし、その代わり、それを抽象性へと、つまりその悪化した特質がそれでも結局は感覚的世界から取られてきたような抽象性へと向けさせる、ということにおいてだけなのです。ある一群の感覚的な特質―光、色、音、匂い、味、暖かさ、等々―を、別のグループの感覚的な特質―大きさ、形、位置、数、エネルギー等々―に還元することによって説明することはできません。自然科学の使命は、ある範疇の特質を別の範疇の特質に「還元する」ことではあり得ません。それはむしろ世界の知覚可能な特質の間の結びつきや関連性を見出すべきなのです。私たちがそれを行うとき、私たちはある感覚的な知覚が必然的に別の知覚に移行する特別な条件を見出します。私たちが見出すのは、ある現象は別の現象に比べてより密接に関連している、ということです。私たちは無作為の観察による偶然の結果以上の結びつきを確立します。私たちは、ある関係は必然的なものであり、別の関係は「偶発的」なものである、ということを認めます。ゲーテは現象間の必然的な関連を「元型的な現象」と呼びました。
 ひとつの感覚的な知覚が別の知覚を不可避的に生じさせる、と言うとき、私たちは元型的な現象を扱っているのを知っています。これは私たちが「自然法則」と呼ぶところのものです。例えば、「物は暖められれば膨張する」と言うとき、私たちは感覚世界の現象、つまり、暖かさと膨張の間の合法則的な関連を表現しています。私たちは「元型的な現象」を認め、それを「自然法則」として表現しました。元型的な現象はオストヴァルドが求めていたもの―無機的な自然の中の最も普遍的な関連性を表現するあの形態―に対応しているのです。
 数学や力学の法則もまた、その他の感覚的な関連を定式化する法則と同様、元型的な現象の表現に過ぎません。力学の使命は自然の動きを「最も単純で、最も完全な仕方で」記述することである、というキルヒホッフの言葉は間違っています。力学は自然の動きを最も単純で、最も完全な仕方で記述するだけではなく、一定の「必然的な」動きをも自然の中で生じる動き全体の中に探し求めます。そのとき、それはこれらの必然的な動きを「基本的な力学法則」として定式化します。キルヒホッフの言葉は、きわめて単純な力学法則を確立するだけでその誤りが証明される、ということに気づかれることなく、途方もなく重要なものとして繰り返し引用されてきました。その理由は極端な無思慮によってのみ説明することができます。
 元型的な現象は現象世界の要素の間の合法則的な関連を表現しています。1892年6月11日のワイマールでのゲーテ会議でヘルムホルツが行ったスピーチの中で述べられたこと以上に不適切な発言はほとんどあり得ません。

当時、既に確立していたホイヘンスによる光の波動理論についてゲーテが知らなかったというのは残念なことである。彼は彼がその目的のために選択した懸濁液中で生じる色彩におけるようなかなり不適切で込み入ったプロセスよりも遥かに正確で具体的な「元型的な現象」をそこに見出していたことだろう。

 彼は、波のような知覚不能で光という現象に対する推論的な付加物の方が、私たちの正に眼前で展開するプロセスよりも正確で具体的な「元型的な現象」をゲーテに提供するはずだ、と主張しているのです。後者のプロセスはそれほど複雑なものではなく、曇らされた媒体を通して見た光が「黄色」として、照明された媒体を通して見た闇が「青」として含まれる、というようなものです。感覚知覚可能なプロセスの知覚不可能な機械的な動きへの「還元」は現代の物理学者たちにとってあまりにも習慣的なものとなっているために、現実を抽象で置き換えていることに彼らは気づいていないように見えます。
 ヘルムホルツによるこのような宣告は、ゲーテによる以下のような記述が反駁されたときにのみ許容されるべきものです。

最高の成果は、あらゆる実際のものは既に理論である、ということを理解することにある。青い空は私たちに色の基本法則を明らかにする。「現象の背後に何も探すべきではない。それら自体が理論なのだ。」(散文の中の韻)

 ゲーテは現象の領域「内」に留まります。現代の物理学者たちは、これらの仮想的な現実から実際に知覚された経験という現象を導き出すために、世界の細々としたものをいくつか集めてきて、それらを現象の「背後に」置きます。

4.


 ある若い物理学者たちは、物質的な動きというアイデアに対して、彼らの感覚的な経験に対してよりも高い要求はしないと主張します。その中にアントン・ランパがいます。彼には、機械論的な科学者であると同時にインド神秘主義の追随者であるという顕著な功績があります。彼はオストヴァルドの発言に対して、次のように反論します。

彼の科学的な唯物主義との戦いは風車を槍で突いているようなものに過ぎない。科学的唯物主義という巨人がどこにいるというのか?それは存在すらしていない。かつては、ビュフナー、フォイクト、そしてモレショーの科学的唯物主義があった。それはまだ存在しているが、自然科学の中にではない。何故なら、それはそこでは居心地がよくないからだ。オストヴァルドはそれを見逃していた。そうでなければ、彼はただ「唯物論的な」観点に反対する立場を取っていただけであっただろう。けれども、彼は、その誤解のゆえに、たまたまそれを行ったに過ぎない。そして、もし、彼の誤解がなかったとすれば、恐らくそうすることは全くなかっただろう。そのとき、科学が、キルヒホッフによって切り開かれた道を辿りながら、唯物主義がそうしたように、物質について考えるというようなことがあり得ただろうか?それは明らかな矛盾であり、あり得ないことである。物質についての概念が意味を持つのは、力についての概念と同様、最も単純な記述に対する要求によって正確に決定されるとき、あるいは、カントの言葉を借りれば、経験主義的な意味においてだけである。そして、もし、科学者が「物質」という言葉にさらなる意味を付与するとすれば、科学者としてそうするのではなく、唯物主義的な哲学者としてそうするのである。(「時代」ウィーン、1895年11月30日)

 これらの言葉から判断すると、ランパは私たちの時代の典型的な科学者であると考えなければなりません。彼はより便利で機械論的な説明の仕方をしますが、そのような説明の現実的な性質についてさらに考えることを回避します。それは彼が彼には解決不可能な矛盾の中に巻き込まれることを恐れるからです。
 どうすれば明晰な心を持つ人が、経験の世界を越えていくことなく、物質についての概念を理解する、などということができるでしょうか?経験に基づく世界の中には、様々な大きさと位置を持った物体が存在し、動きや力が存在し、光、色、熱、電気、生命、等々の現象が存在します。けれども、経験は、大きさ、熱、色、等々が「物質」に付随するものであるということを私たちに告げることはありません。物質が私たちの経験の中に見出されることはあり得ません。もし、私たちが物質について考えたいのであれば、それを案出し、私たちの経験に「つけ加え」なければなりません。
 現象的に経験された世界への物質のこの知的な付加が目につくのは、カントやヨハネス・ミュラーの影響を受けた今日の自然科学の中でもきわめて一般的な物理学的あるいは生理学的な考察においてです。それらは、耳の中の音、目の中の光、熱を感知する器官の中の熱へと続く外的な事象は、音、光、そして熱の「感覚」とは全然関係がない、と私たちが信じるように仕向けます。これらの外的な事象は単に特定の物質の動きであると思われているのです。科学者たちは、音、光、あるいは色を人間の魂の中に生じさせるのはどのような種類の外的な動きなのかを決定します。彼らは、赤、黄、あるいは青は人間有機体の外側に存在しているのではなく、繊細で可塑的な物質であるエーテルの波に似た動きがあり、それが目を通して感知されるとき、赤、黄、あるいは青として知覚される、と結論づけます。もし、目がなかったならば、色は存在せず、あるのはエーテルの動きだけだったでしょう。彼らは、エーテルはひとつの客観的な事実であるが、色は主観的で、人体の内部で創造されるようなものである、と主張します。今日のドイツにおける最も偉大な哲学者の一人として高く評価されているライプチヒのヴント教授は、物質とは基質であり、「決して直接に観察されるものではなく、その効果を通してのみ観察され得るものである」と言います。そして、彼は、「自らと矛盾しない現象についてのいかなる説明も」そのような基質を仮定しなければならない、ということを見出します(「論理学」第2巻参照)。明晰で混乱した心象についてのデカルトの妄想は、物理学においては、物質を表現する基本的な方法となったのです。

5.


 世界観を形成するための能力がデカルト、ロック、カント、そして、現代生理学によってまだ破壊されていない人たちにとって、光、色、音、熱、等々を人間有機体の単なる主観的な状態として考え、同時に、完全に客観的なプロセスの世界が有機体の外に存在していると主張することがどうして可能なのかを理解することは決してできないでしょう。もし、人間有機体そのものが音、色、熱を創造する、と主張するのであれば、私たちは同時に、それは広がり、大きさ、位置、動き、力、等々を創造する、と言わなければならないでしょう。これらの数学的、機械論的な特徴をその他の知覚可能な世界から実際に分離することはできないのです。熱、音、色、そして、その他の感覚的な特質から空間、数、動き、そして、その他の力の表現を分離するのは抽象的な思考だけです。数学的、機械論的な法則は経験の世界から導かれた抽象的な実体やプロセスと関係しており、したがって、それらはそのようなものとして経験世界に適用することができるだけです。もし、私たちが、数学的、機械論的なプロセスもまた主観的なものである、と主張しなければならないとしたら、客観的な事物やできごとについての私たちの概念の内容として役立つものは何も残っていないことになるでしょう。そして、空虚な概念から現象を導き出すことはできないのです。
 現代の科学者たちとそのカバン持ちである哲学者たちは、感覚的な知覚は客観的な事象によって引き起こされた主観的な状態に過ぎない、という考えにしがみついています。そうであるならば、健全な思考は、彼らは空虚な概念を弄んでいるのではないか、あるいは、主観的であると宣告された世界のあの部分から借りてきた内容を客観的な世界に割り当てているのではないか、と反論しなければならないでしょう。私はいくつかの私の著作の中でこの不条理について言及しました。(編注:「ゲーテの世界観の中で暗示された認識論の概要」1886年、「真実と科学」1892年、「自由の哲学」1894年)
 私は、それらを生じさせる波動プロセスや力(最近の物理学はすべての自然現象をそれらから導き出します)は感覚的な知覚の形態とは異なる現実についての形態に帰属されるべきか、という問題に立ち入るつもりはありませんが、ただ、数学的、機械論的な世界観によって達成されるものとは何か?と問うかも知れません。アントン・ランパの意見は次のようなものです。

数学なしでも数学的な方法を用いることはできる。したがって、課題としての数学と方法としての数学とは同じものではない。二項式も満足に解けなかったファラデーは、電気に関する彼の実験的な研究において、このことについての古典的な例を提供している。数学とは、私たちの通常の論理的な思考様式にとっては過剰であることが分かるはずの多くの複雑なことがらについて、単に論理的なプロセスを簡略化することにおいて、私たちの助けとなる方法であるに過ぎない。しかし、数学にはそれ以上のことが可能である。つまり、各定式がそれ自身の生成過程を表現する程度に応じて、それは探求の出発点として役立つ基本的な現象への生きた橋を架けることができるのである。したがって、数学を用いることができないような手法―大きさが測定できないときにはいつでもそうなのだが―においては、それが数学的な方法論を用いるべきものであったとしても、単に厳密な論理に固執するだけではなく、非常に注意深く、ものごとを基本的な現象にまで遡って追求するようにしなければならない。そうでなければ、それは、正にそれが数学的な構造を欠くところにおいて、正道を踏み外すことになる。しかし、それが達成されるとき、それは、その正確さという特徴をもって、「数学的」であると正しく主張することができるだろう。(「探求者の夜」P92)

 ランパが現代の自然科学者としてそれほど完璧な例でなかったとしたら、私は彼のためにこれほど多くの時間を費やすことはなかったでしょう。彼は彼の哲学的な必要をインド神秘主義によって満足させますが、それは彼が彼の機械論的な世界観をあらゆる雑多な哲学思想によって混乱させていない、ということを意味しています。彼が心に抱いていた自然についての理論とは、いわば今日の科学の「純粋な」観点なのです。ランパは数学におけるひとつの重要な特徴を完全に無視していた、ということが分かります。確かに、あらゆる数学的な方程式は探求に向けた出発点として役立つ基本的な現象への「生きた橋を架け」ますが、基本的な現象というものは、そこから橋が架けられるところのさらに複雑な要素と本質的には同じものなのです。
 数学者たちは複雑な空間的、数的構造の特徴やそれら相互の関連を最も基本的な数的、空間的な構造にまで遡って辿ります。力学的な技術者は彼らのフィールドで同じことを行います。彼らは「複合的な」動きや力を単純で容易に調べることができる動きや力にまで遡って辿ります。彼らはこれを行うために、数学的な法則を用いて、動きや力の効果が幾何学的な形や数式で表現されるようにします。力学的な法則を表現する数学方程式においては、個々の要素、あるいは方程式は、もはや純粋に数学的な様式ではなく、力や動きを表現しています。これらの定式がその中に組み込まれているところの関連性は純粋に数学的な法則によってではなく、実際の力や動きの特性によって決定づけられているのです。これらの力学的な定式の特定の意味を忘れるや否や、私たちはもはや力学的な法則性ではなく、単に数学的な法則性を扱っていることになります。
 力学と数学の間の関係は物理学と力学の間の関係に相当します。物理学者の使命は、色、音、熱、電気、磁気、等々の複雑なプロセスを「同じ領域の内部で」単純なできごとにまで辿っていく、ということです。彼らは、例えば、複雑な色の事象を最も単純な色の発生にまで追っていかなければなりません。そのとき、彼らは、色という現象が空間的、数的に分析可能な形式を含むように、力学的、数学的な法則を用いなければなりません。数学的な方法が物理学に適用されるとき、それは、色、音、等々の間の結びつきをそれらの現象自体の「内部で」調べる、ということを意味しているのであって、色や音に欠ける物質の中の力や動きにまで遡ってそれらを辿っていくということではありません。
 現代の物理学はそれ自体としての音、色、その他の性質を回避し、変化することのない引力や斥力、そして空間中の動きだけを調べます。このアプローチの影響の下で、物理学はほとんど応用数学や応用力学の形態を取るに至りました。科学のその他の領域もまたその方向に向かっています。
 無色の物質が空間中の特定の位置で一定の動きをしているという事実と、別の位置で誰かが赤色を見るという事実の間に「生きた橋」を架けることは不可能です。動きから導かれ得るのは動きだけです。感覚に影響し、したがって脳に影響する動きがあることから、数学的、力学的な方法にしたがえば、脳は刺激を受けて一定の動きに応答するということになるのですが、実際の色、音、その他を感知することにはなりません。デュ・ボア−レイモンが次のように問いかけたとき、彼はそのことを既に認識していました。

一方には、私の脳内の特定の原子の動きがあり、他方には、私が痛み、喜び、甘さ、薔薇の香り、オルガンの音楽、あるいは、赤を経験しているという直接的かつ定義はできないけれども否定することができない事実がある。しかし、それらの間にはどのような関係があり得るのか・・・動きは動きだけを生じさせることができる。(「科学的認識の限界について」P34,35)

 デュ・ボア−レイモンがここに見ているのは科学的な認識の限界です。しかし、私の意見では、赤色を見るという経験を特定の動きから導き出すことができない理由を示すのは簡単です。それは「赤」という性質と一定の動きのプロセスとは実際には分離不可能な統一体であるということです。知的、概念的なものが二つの出来事を分離するに過ぎません。赤という性質に対応する特定の動きは、独立した現実性を持つものではなく、抽象的なものです。動きのプロセスから赤色を見るという経験を導き出そうとするのは、ちょうど立方体に対応する数式から塩の立方晶が有する実際の性質を導き出そうとするのと同じくらい馬鹿げたことなのです。動きからその他の感覚的な性質を導き出すことが妨げられるというのは私たちの認識の限界ではありません。そうしようとすること自体がナンセンスなのです。


6.


 色彩、音、そして、そのようなものとしての熱を回避し、対応する機械的なプロセスのみを扱いたいという気持ちは、数学や力学の単純な法則は私たちの感覚世界のその他の側面における特徴や相互作用に比べてもっと簡単に理解できるようなものである、という考えから来ているに違いありません。けれども、そうではないということは確かです。私たちは、空間的、数的な配列における最も単純な特質や関係について考えることは難しくない、と主張しますが、それは私たちがそれらを容易にかつ完全に調べることができるからです。すべて数学的、力学的に理解するということは、私たちがそれらに気づくやいなや、理解することができる単純な事実にものごとを還元するということを含んでいます。二つの値が第三の値に等しく、したがって、それらは互いに等価でもある、という記述は、私たちがその内容に気づくとき、直ちに理解されます。同様に、音、色、そして、その他の感覚的な知覚の領域における単純な現象は直接的な観察を通して認識されるのです。
物理学者たちが音や色という特定の性質を現象世界から排除し、それらに対応する動的な出来事だけを考慮するのは、単に彼らが その偏見によって、単純な数学的あるいは力学的な事実の方が音や色の基本的な知覚よりも理解しやすい、と信じるように導かれたからに過ぎません。そして、彼らは、何らかの動くものなしに動きについて考えることができないために、動きの担い手としてあらゆる性質に欠けた物質を考え出します。この偏見に捕われている人たちだけが、動的な状態そのものが感覚知覚可能な性質に関連している、ということに気づき損ねることになるのです。様々な音に対応する振動の内容は音の性質そのものです。同じことはすべての感覚的な性質について言えます。現象世界における振動の中身を私たちに気づかせてくれるのは、抽象的なことがらを思いつきで加えることではなく、直接的な認識なのです。

7.


 ここで私が述べていることは現代の物理学者たちの耳には不可能なことのように聞こえるに違いありません。けれども、私には、現代科学の思考習慣は論理の規範である(「論理」第2巻)、というヴントの観点を受け入れることはできません。この仮定が無思慮なものであることは、彼が振動する物質というアイデアをエネルギーの振動で置き換えようとするオストヴァルドの試みを検証するときに明らかとなります。ヴントは次のように述べています。

介入する現象(の存在)はある種の振動を仮定する必要を生じさせる。しかし、動きは動く物質なしに考えることはできないため、光の現象は何らかの種類の力学的なプロセスにまで遡らざるを得ない。ところが、オストヴァルドは、「光エネルギー」を物質媒体の振動ではなく、振動状態にあるエネルギーとして定義することによって、この第二の仮定を回避しようとしたのである。言い換えれば、我々は可視的な面と完全に概念的な面という二面性を持った概念について考えているのであるが、この曖昧さの存在自体が衝撃的に示唆しているのは、エネルギーの概念そのものが観察可能な要素にまで導くような分析を必要としている、ということである。実際の動きが定義され得るのは、空間中における実体的な基盤の位置変化としてのみである。その基盤の存在が明らかにされ得るのは、そこから放射される力の影響によってか、あるいは、それによって保たれていると我々が仮定するところのあの力の働きによってである。しかし、それ自体が概念としてのみ把握され得るそれらの力の働きについては、何らかの種類の基盤を「仮定」しない限り、それらを動きとして思い描くのは不可能なように思われる。

 オストヴァルドのエネルギーについての概念はヴントが言うところの「現実的な」基質よりもずっと現実に近いものです。光、熱、電気、磁気等の知覚された現象のすべては、力の生成、あるいはエネルギーという概念で括ることができます。例えば、光あるいは熱が物体中の変化の引き金になるとき、エネルギーの生成が引き起こされます。光や熱を「エネルギー」として記述すれるとき、私たちは共通したひとつの一般的な性質のためにそれらに固有の特質を無視しているのです。そのような性質は、確かに現実のすべての側面を網羅してはいませんが、それはひとつの現実的な性質なのです。他方、物理学者たちや哲学における彼らの同調者たちが彼らの仮想的な「物質」に帰した性質の概念は本質的に自己矛盾です。これらの性質は感覚世界からの借り物であるにもかかわらず、感覚の領域の一部ではない基質に適用されると思われているからです。
 「光エネルギー」の概念が単に二つの側面、「物理的に観測可能な」側面と「概念的な」側面を持つからといって、ヴントが何故それは不可能であると主張できるのかを思い描くことはできません。哲学者ヴントは、感覚的な現実に関連するすべての概念は観測可能な要素と純粋に概念的な要素の両方を含んでいなければならない、ということを理解し損なっているのです。「塩の立方晶」という概念は感覚にとってアクセス可能な塩の結晶という知覚可能な部分と、固体幾何学によって確立される純粋に概念的な部分を有しているのです。

8.


 最近の世紀における自然科学の進歩は、より高次の人間的な要求を満足させる世界観へと科学を参画させる可能性のあるあらゆる概念を破壊する方向に導いてきました。それは、空間を占める活動する力や物質と同様、「概念」や「アイデア」も現実の世界に属している、と言うのは馬鹿げたことだと主張するように「現代の」科学者たちを導いてきたのです。そのように考える人たちにとって、概念やアイデアは人間の脳が作り出したものであり、それ以上のものではありません。スコラ哲学者たちはこれらのことがらの本質をまだ理解していました。現代の科学者たちは、スコラ哲学とは何であるかを、特に、それのどこが健全な面で、どこがそうではないかを知ることなく、それを退けます。
 スコラ哲学における健全な面とは、概念やアイデアは現実を理解するために人間の心が考案した単なる想像上のものではなく、何らかの仕方で事物そのものと、しかも物質や力以上に関連している、という感情でした。この健全なスコラ哲学的感性はプラトンやアリストテレスの偉大な観点の遺産だったのです。他方、スコラ哲学に関して不健全な点は、この感情が中世におけるキリスト教の発展の中に入ってきた概念と混合されるようになったということです。この発展の中で主張されたのは、別世界の、したがって、知ることのできない神が概念やアイデアを含むすべての精神的な現実の源泉である、ということです。それは何かこの世のものではないものへの信仰に依存していました。
 他方、健全な人間の精神はこの世界にこだわり、他のいかなる世界も必要としません。その代わり、この世界を精神で染め上げたりもします。そのような精神は、ちょうどこの世の現実を感覚世界の事物やできごとに帰属させるように、概念やアイデアにもそれらを帰属させるのです。ギリシャ哲学はこのような健全な考えに由来していました。スコラ哲学はそれへの親和性を保っていましたが、それを読み変え、別世界のものであるキリスト教信仰にそれを対応させようとしたのです。概念やアイデアは、もはや人間がこの世界のプロセスの中に見ることができる最も深遠なものではなく、むしろ神であり、別の世界であると考えられたのです。何かについてのアイデアが分かってしまえば、私たちはその「源泉」についてさらに調べる必要を感じませんが、それは私たちが知識に対する人間的な必要を満たすものを見出しているからです。しかし、そのような知識に対する人間的な必要についてスコラ哲学者たちが何か気にとめていたことはあるでしょうか?彼らは神についてのキリスト教的な観点であると彼らが見ていたものを保持しようとしたのです。事物の内的な存在を求める彼らの探求は概念とアイデアにしか導きませんでしたが、彼らは別世界の神の中に世界の源泉を見出そうとしたのです。

9.


 何世紀にも渡って、キリスト教的な概念は、古代ギリシャから伝わってきた消えゆく感情以上に力強いものとなってきました。その過程で、人々は概念とアイデアという現実に対する彼らの先見的な感覚を見失い、純粋に物質的なものを崇拝し始めました。自然科学におけるニュートンの時代が始まったのです。もはや世界の多様性の根底に横たわる統一性について語られることはなくなりました。すべての統一性は否定され、単なる「人間的な」思いつきへと格下げされたのです。人々は自然の中にひとつの多様性、特別なものの寄せ集めだけを見ました。ニュートンはこの基本的な観点によって光をひとつの主要な統一体としてではなく、何らかの複合体として見るように導かれたのです。ゲーテはその「色彩論の歴史のための材料」の中でこの歴史的な発展の諸側面について記述しています。そこで明確になるのは、最近の科学の概念は色彩論の領域で不健全な観点へと導いた、ということです。この科学は光を自然の特質のひとつとしてもはや理解してはいません。ある一定の状況下で、何故、光に色がついて現われるのか、あるいは、色はどのようにして光の領域内で生じるのか、ということを科学が知らないのはそのためです。