シュタイナーに関する諸テーマ2


眠りの意味、夢の意味

アストラル体と自我についてなど

アストラル界と神界

シュタイナーの自然観

アーリマン的な力とその解放について

半神でなく全人を

アトランティスから中国へ

 

眠りの意味、夢の意味


(95/04/29)

 

 睡眠については、シュタイナーはかなり明確に語っています。参考までに、「薔薇十字の神智学」(平河出版社)から引用してみましょう。実は、現在、このテキストを使って読書会をしていまして、今日(28日)に扱ったところにちょうどありましたので、それを(^^)。

 えっと、引用の中にでてくる用語について簡単に解説しておきますと、シュタイナーの神秘学では、人間は、肉体(物質体)とエーテル体(生命体)、アストラル体(感情体)、自我の多次元的構成体とでもいえる存在で、アストラル体は動物と共有しており、エーテル体は動物、植物と共有しており、物質体は、鉱物、動物、植物と共有しているボディです。で、人間は眠っているときには、アストラル体と自我が肉体とエーテル体から離れているのに対して、死んだときには、エーテル体、アストラル体、自我が肉体から離れます。

 では、このことを念頭におきながら、眠りの意味について。

眠っている人は、肉体とエーテル体の外、アストラル体の中で生きています。人間がこのように眠りに落ちなければならないことには正当な理由があります。夜、眠りの状態において、肉体とエーテル体の外にいるとき、アストラル体は不活発で何の働きもしないと考えるべきではありません。(中略)

アストラル体がつねに人間の内にあれば、アストラル体が宇宙の海から携えてきた調和は物質界の強力な影響によってすぐに乱されてしまいます。そして、人間はすぐに病気と疲労によって消耗してしまいます。眠っている間、アストラル体は物質界の印象から遠ざかり、自らの生みの親である宇宙の調和の中に入り込んでいきます。そして、朝、夜の間に体験した若返りの余韻を携えて目覚めるのです。毎夜、アストラル体は大宇宙の広大なアストラルの海の中で若返ります。霊眼に映じる夜のアストラル体は活発に活動しています。アストラルの海とアストラル体の彗星に似た尾との関連が見え、いかにこの尾の部分が不調和な世界のもたらした虚脱状態を除去しようと働きかけているかがわかります。アストラル体のこの活動によって、私たちは朝、活力を感じるのです。夜の間大きな調和の中に生きたアストラル体は、再び物質界に帰ってこなくてはなりません。(P45-48)

 ついでに、夢とはどういう状態なのかということについての部分も、簡単に。 

目覚めと眠りの状態との間に夢があります。アストラル体がまったく、その触手さえも肉体から分離しながらも、まだエーテル体と結びついている状態において、夢のある眠りが出現します。この状態で、人間の視界は夢という映像に浸透されます。この状態は、アストラル体が肉体との結びつきを完全に解いていながらもまだエーテル体に結合しているため、中間状態ということができます。                        (P45)

 

 

アストラル体と自我についてなど


(95/05/08)

 

 アストラル体と自我についてですが、その理解のガイドとなりそうなところをピックアップしてご紹介することにしたいと思います。ではまず、「魂体」ともいわれるアストラル体について。 

人間の本質の第三の構成要素としてわたしたちが認識するのは、低次の情熱および高次の情熱を担うものであり、人間が内面で体験する快と苦、喜びと苦痛、欲望と衝動すべての担い手であるアストラル体です。アストラル体は通常の思考世界、意志衝動の担い手でもあります。アストラル体も、高次の感覚を発展させることによって、心眼に見えるようになります。アストラル体は雲のように人間を包み、肉体とエーテル体に浸透しています。わたしたちはアストラル体を、動物界と共有しています。アストラル体のなかにおいては、すべてが動いています。心情の動きは、すべてアストラル体のなかに反射されます。どうして「アストラル体」という名前なのでしょうか。肉体がその物質素材をとおして地球全体に関連しているように、アストラル体は地球を包む星界と結びついているからです。 (「シュタイナー教育の基本要素」イザラ書房/P11)

 続いて、自我について。 

第四の構成要素を有することによって、人間は最高の被造物であります。第四の構成要素は、人間が自分にむかって「わたし」といえる能力を与えるものを包括します。「わたし」という言葉は、自分自身についてしかいうことができません。「わたそ」という言葉が発せられるのは、魂のなかで魂の神的な花火が語っているとうことあらわしています。人間がほかの人々と共有する事物に関しては、それらの名称を人が語るのを聞くことができます。しかし、各人が内的な神として自分の内に有する自我は、各人のみが「わたし」ということができるのであって、その自我を指して他者が「わたし」ということはありません。ですから、ユダヤの秘密の学院では、その言葉は「言い表せない神の名」といわれました。ヤハウェという名は「わたしは『我あり』である」という意味であり、司祭が畏怖をもって呼んだ名です。この「わたしは『我あり』である」が、人間に魂を与えたのです。

(「シュタイナー教育の基本要素」イザラ書房/P12-13)

 ぼくは動物や人間と同種の感情があるとは考えていません。もちろん、それは人間の感情が植物に働きかけないということを意味してはいません。そういう意味では、人間の感情は鉱物にだって働きかけることができます。それから、植物、動物といっても、その存在様態はさまざまであって、それを一様に云々することはできないと思いますし、シュタイナーの提示しているのは、あくまでも鉱物、植物、動物、人間というあり方の基本的な相違ということだわけです。

 ここで少し付加的に説明しておかなければならないのは、鉱物にエーテル体、アストラル体、自我がなく、植物にアストラル体や自我がなく、動物に自我がない、といっているのは、この物質世界に存在してはないないということであって、そうした「体」は、高次の世界に集合的なあり方で存在いています。こうした中でもっとも高次の世界にあるのが鉱物の自我なわけで、そこらへんのことを念頭に置いておく必要があります。このことについては、読書会などでも少しご説明すればと考えています(^^)。

 また、植物の世界については、手元にあるものでいえば、たとえば未訳の

●シュタイナー「存在の大いなる問いに対する精神科学の解答」

 という講義集の6章の「植物界の霊」(1910年)などに概説されていたりするのですが、まだ邦訳がないのでご紹介が難しいようです。できれば、そのうちそこらへんのレジュメでもつくることにしたいと思いますが、そこらへんの内容に共通する部分は、たとえば、

●シュタイナー「農業講座」(人智学出版社)

 あたりには、こんな感じで紹介されています。 

あたかも、人間の中の個々の器官が人間の総体的な機構の中に統合されているのと同じように、一つ一つの植物の種類が、植物界の総合的機構の中でその位置を占めているという観点で植物の本質をとらえることが、私の課題です。私たちは個々の植物を全体の中の部分と見なすことができなければなりません。(P100)

 個々の植物を一匹の動物や、また一人の人間と同じように見るのでは、その本質は理解できないというわけです。また、植物には四大霊のなかの特に水の精であるウンディーネなどが働きかけているといいます。ここらへんのことも、まだ未訳の状態ですので、併せてそこらへんのこともそのうちご紹介させていただきますので、気長にお待ち下さい(待ちぼうけだったりして^^;)。

 

 

 

アストラル界と神界


(92/11/02)

 

 アストラル界と神界について。

 アストラル界が、「色の世界」「漂い流れる色彩の海」といわれるのは、それがイマジネーション認識の世界であるということでもあるように、形象世界であるということと、それらの形象の特性が衝動、欲望、情熱、願望、感覚といったものであるからのようで、しかもそれらは物体の世界よりもはるかに精妙で動的で自由に形態を変えることから漂い流れる色彩の世界ということで描写されるのだと思います。だから、ご指摘の両方の意味が含まれているといえるでしょうが、それを固定的にイメージするとちょっと違うかなあ、という感じです。

 だから、それらを「可視光線」としてとらえると誤解してしまいます。詳しくいうと、魂の世界は次の1・2・3の低次領域と、5・6・7の高次領域とその両者を仲介する4の領域に区分できます。 

1 燃える欲望の領域

2 流動的感応性の領域

3 願望の領域

4 快と不快の領域

5 魂の光の領域

6 魂の活動力の領域

7 魂の生命の領域

 低次領域では、魂の構成体の特質は「共感」と「反感」との関係から得られ、第4領域では共感が魂的構成体自身の中だけに働き、高次領域では、共感の力が次第に自由になっていくといいますが、そうした魂の世界の素材は、上記にもいった衝動や願望、欲求といったもので今私たちが物質界でイメージしている「色彩」では決してありませんので、ご注意ください。

 「光のエネルギーはどこから供給されているか」ということですが、その「光」というのを霊的な光のエネルギーとすると、それは「霊太陽」というものから供給されているようです。そもそもこの宇宙にあるすべての存在はそうした神の根源的な「光」(象徴的に)からヒエラルキーを降下させながら、それぞれのヒエラルキーの現象形態にあった形のエネルギーとして現象化していくといえるように僕は考えていて、この物質界の物質というのも、その根源的な素材というのは「光」であると思われます。

 ドイツロマン派のノヴァーリスは「物質は光になろうとしている」といいましたが、まさに、物質は神の根源的な光に向かっているといえるのではないでしょうか。物質とエネルギーが等価というのも、まさにその考え方に向かう契機だともいえるように僕は思っています。ちなみに光から螺旋上のプロセスを多次元的に展開させながら、物質が形成させるプロセスについては、「神智学大要」に細かく説明されています。

 色彩のついた夢と色彩に乏しい夢の差についてですが、ということですが、なかなか鋭い質問で、ううむ、ですが、それを断定することはできないものの、色彩のついた夢というのは、いわゆるあの世での実際の体験である可能性が高いといえるでしょうね。よく連続ドラマのように、続きを夢見ることがありますが、それもあの世での実際の体験であることが多いようです。ただ、その体験というのは、こちらのフィルターにかかった形をとっていますので、それをそのままとってしまわない方がいいとは思います。シュタイナーは、夢体験の多くを、覚醒時の昼間の生活の余韻を恣意的に形象化したものであるといいながらも、睡眠時にはアストラル、つまり地球とは別の天体の属している世界へ歩み入るといいます。こうしたことについては「神秘学概論」の第3章「眠りと死」において詳述されていますので、そのうち興味があれば参照してください。

  さて、神界について。

 「不可視の電磁波」がどうなっているのかというのはちょっと厳密にはわかりませんが、どちらにせよヒエラルキーの違いということからこの物質界のイメージをそのまま霊界に適用するのは誤解のもとかもしれません。そうしたことを前提にしながら、霊界についての参考になりそうなところを「神智学」からいくつか引用させていただきます。

 特に強調しておかなければならないのは、霊界が、人間の思考内容を織り成す素材とまったく同じ素材によって、織り成されているということである。(「素材」という言葉も勿論ここでは比喩的意味に用いられている。)ただ、人間の思考内容の中に生きている素材は、この素材の真の本性の陰であるに過ぎず、図式であるに過ぎない。壁に投影された事物の影がこの事物そのものに対するように、人の頭に浮かぶ思考内容は、この思考内容に対応する「霊界」の存在に対している。・・・霊眼を用いることを学んだ人にとって、周囲は新しい生きた思考内容や霊たちの世界によって満たされるのである。・・・

霊界では一切が絶え間のない活動状態を保ち、止むことのない創造行為を続けている。物質界に存在するような休息とか停滞ということは、ここには存在しない。なぜなら創造する本性が原像なのだからである。・・・

「霊界」の中には、「霊視」されるものの他に「霊聴」の対象として考察すべき別の原像が存在する。「見霊者」が魂界から霊界に上がると、やがてその知覚された原像は響きはじめるようになる。この「響き」は純粋に霊的な事実である。それは物質界の音とはまったく別様に理解されなければならない。それを体験する人は音の海の中にいるかのような自分を感じる。そしてこの音響、この霊的響きの中で、霊界の精霊達が自己を語る。この音響の和声とリズムと旋律の交響する中で、彼らの存在の原則や相互関係、親和関係が明瞭に示される。物質界の中で、悟性が法則や理念として認めるものが、「霊耳」には、霊的音楽として表現される。(ピタゴラス派が霊界のこの知覚内容を「天体音楽」として名づけたのは、このことによる。「霊耳」をもつ者にとって「天体音楽」は象徴的、寓意的なものではなく、よく知られた霊的現実なのである。)この「霊的音楽」について明確な概念を得ようと思うなら、「肉体の耳」で聴く聴覚的音楽に関する一切の観念を取り去る必要がある。・・・

 ちなみに、この霊界的認識のことをインスピレーション認識と呼びますので、記憶の隅にでも置いておいてください。それから、ピタゴラスの天体の音楽についてですが、

●オスカー・ベッカー:ピュタゴラスの現代性(工作舎)

 というのが先日でていますので、興味があればご参照ください。似たテーマで同じく工作舎からでている百科全書ふうの著作に

●J.ゴドウィン:星界の音楽

 というのがあって、プラトン、ケプラー、シュタイナー、バッハ、ケージなど音楽に秘められた宇宙観についてのいろいろなネタを参照するには最適です。それから、この前会議室でもそうした天体の音楽に関連して、中村雄二郎さんの「かたちのオデッセイ」(岩波書店)という非常に興味深い著作について幾度かふれたことがあります。そういえば、現代思想の11月号の特集が「形とはなにか」で、シュタイナーが基盤としているゲーテの自然科学の中でもとみに注目されているモロフォロギーがとりあげられていますので、要注目です。

 ちょっと話が脇にそれてしまいましたが、次には「陰画」について。これは、霊界においては、物質界と魂界に存在するすべての事物や生物の「霊的原像」が現れてくるということですが、その「原像」のことをいうのだと思います。これについては、「神秘学概論」の第3章「眠りと死」の中でふれられていますので、そこの部分を紹介しておきます。 

超感覚的意識によれば、霊の国には3つの領界が見られるが、これは、自然の感覚世界が3部分に分かれている点と比較することができる。第一の領界は、いわば霊的世界の「陸地」であり、第二の領界は「海及び河川地域」、第三の領界は大気圏である。ーーーー地上で物質的形態をとり、この結果、身体器官により知覚可能な存在は、その霊的本性に応じて、「霊の国」の第一領界で知覚される。そこでは、たとえば結晶の場合、この形態を形成する力を知覚することができる。ただ、その場合に開示されるものは、感覚世界に現れてくるものとは逆のものである。感覚世界で岩石塊に充たされている空間は、霊的な眼には一瞬空洞に見え、しかも、この空洞の周囲には、岩石の形態を作り上げている力が見える。感覚世界で岩石が持っている色は、霊的世界では補色のように体験される。したがって、赤色の岩石は、霊的世界では緑がかって見え、緑色の岩石は赤みがかって体験される等々なのである。他の特性も、相補的なものとして出現する。・・・・

  

 

 

シュタイナーの自然観


(91/12/31)

 

 シュタイナーの自然に対する考え方を簡単に述べておきたいと思います。

 以下の内容について主に参考にしたのは、先日紹介した福山大学の岡晃弘さんの論文「百合は何かを待っている/認識論からのルードルフ・シュタイナー紹介」(福山大学教養部紀要)で、引用部分は、この論文または、そこに引用されているシュタイナーの著作からの引用です。

 シュタイナーは、ゲーテと同様に、自然界や物質界自体に精神が宿っていると考えています。シュタイナーでよくいわれる「思考」というのは、自然の中に宿っている精神を見いだす力であって、「世界の感覚的現象に直接に精神的なものを結合できる力」を有するものとされています。シュタイナーの自然観は、鉱物・植物・動物などの森羅万象に命を認め、それらの中に自然の精霊を感じとる。つまり、自然の精霊と人間との出合いを内的に体験しようというものです。だから、ある意味では、東洋的な世界観に近いといえるかもしれません。

 インディアンやアイヌの問題を考える際にも、現代に生きる私たちにとっては、シュタイナーのこうした自然観を知ることは非常に重要になってくると思います。というのも、シュタイナーの大きな課題は、自然と人間との二元的対立を神秘学的世界観によって乗り越えようとした試みだったからで、ここには、単に先祖帰り的な方法で問題を解決しようというのではなく、近代合理主義的なパラダイムの積極的な乗り越えがめざされているからです。シュタイナーのいう「自我」というのも、利己主義的な意味での自我ではなく、無意識の世界にその中心を置くといってもいい「真の自己」を指していて、春に芽を吹く草花を見るときにも「私の自我が花の中で咲いている。私の自我が草の中に芽を吹いている。」というふうに、自然と人間が深いところでひとつになる心情を表現しています。

 ここらあたりに、東洋的な「無」の思想に近いところもありますが、シュタイナーは、人間の純粋思考、自我体験、自由と結びついた霊体験によって未来を志向するという意味では、極めて現代的な可能性をはらんでいるのではないかと思われるのです。

 そういえば、カスタネダのドンファン・シリーズに「古い見る者」と「新しい見る者」というのがでてきましたが、シュタイナーの自然観は、古いアニミズム的自然観と自然と人間との二元論という2つの考え方を止揚する「新しい自然観」のような気がします。

 シュタイナーはこうした考え方に関して、次のように宇宙の精神的進化について講義しています。 

本来、人間という存在は、鉱物・植物・動物のなかにいる魔法をかけられた自然の精霊達の救済として常にあるべきです。(中略)鉱物・植物・動物のなかに生きている自然の精霊たちは、現在の鉱物・植物・動物におけるよりも高次の存在へと上昇して行かねばなりません。精霊たちは人間の中を通ってゆく場合にのみ、そのことが可能です。本当に、人間は、外的な文化を築くためだけに地上に存在しているのではありません。人間は世界の発展のなかにおいて、宇宙的な目的を有しています。そしてこの宇宙的な目的は、(中略)自然の精霊たちとの進化と関連を持っています。

 やはり、インディアンやアイヌの問題をこれから考えていくにあたっても、できれば、過去への退行的なノスタルジックな視点ではなく、シュタイナーのような「宇宙進化」的な視点を含んだ見方やその他にも、未来志向型の視点を大切にしていきたいと思っています。

 

 

アーリマン的な力とその解放について


(95/10/20)

 

 現段階の人間は、物質レベルにおける作用範囲でしか創造行為ができませんが、進化紀がエーテルレベルになると、生命の創造が可能になるといいます。そういう時期になってはじめて、たとえば、アンドロイドなどができたりして、それに魂が受肉するなんてこともあるのかもしれません。そうなると、まるでディックの世界のようになってくるんですけどね^^;。ちなみに、かつてディックを読み漁ったことのある私・・・。

 えっと、やはり参考になりそうなのはアーリマンのことのように思いますので、「輪廻転生とカルマ」(水声社)の「人智学運動のカルマ」から少し。

あらゆる悪魔的・アーリマン的な力が人間を夢中にさせているのです。アーリマン的な力が多くの人間の体のなかで歓声をあげており、ミカエルは地上に下った宇宙的な知性をもはや維持することができなくなったかのようです。アーリマンの歓声はとくに十九世紀中葉に大きなものでした。アーリマンは、ミカエルは宇宙から地上への道を見出したかつての宇宙的な知性をふたたび見出すことができないであろうと、思ったのです。・・・

ミカエルの伝統全体を見直さねばなりません。ミカエルは龍を足で踏んでいます。ミカエルは宇宙精神を代表して、アーリマン的な力を踏んで、戦っています。(P215-216)  

ミカエルが霊界で天使、大天使、人間の魂たちを教えている間に、地表の下にアーリマンの学院が作られたのです。超感覚的世界にミカエルの学院があり、私たちが立っている地表の下にアーリマンの学院があるということができるのです。霊的なものは地下でも活動します。そして、もし、このときに、ミカエルが知性に天的な霊感を与えるための衝動を与えず、地上における知性をなげやりにしておけば、アーリマンの一群が人類の知的進化のなかに地下から衝動を送り込もうと努めたでしょう。これはものすごい光景です。(P227)  

意識が鈍くなってきたときにアーリマンは人間に憑依するのです。人々がどのように容易にアーリマンに憑依されるかは、北アメリカの東部にまだインディアンがいたころ、ヨーロッパ人が印刷された本を持ってアメリカに行ったときに何が起こったかを見れば十分です。インディアンたちは、ヨーロッパ人がもたらした文字は小さな悪魔だと見たのです。インディアンたちは正しい視力を持っていたのです。インディアンたちはアルファベットを非常にこわがりました。(P230)  

人間がアーリマンに憑依されるだけでなく、アーリマン自身が人間の魂を通して地上にみずからを告知するために、著述家として出現するのです。アーリマンが輝かしい著述家であることは不思議ではありません。アーリマンは、包括的な、巨大な霊だからです。・・・

著述家としてのアーリマンの二十世紀全体を通じての輝かしい活動に注意していなければなりません。アーリマンは独特な所で本を書くでしょう。そして、アーリマンの弟子たちが育成されるでしょう。今日すでに意識下の魂が養成されており、アーリマンの弟子たちは早く再受肉して、著述家としてふたたびアーリマンの道具になることができるでしょう。アーリマンはあらゆる領域にわたって書きます。哲学、詩、演劇、叙事詩、医学、法学、社会学についてアーリマンは書きます。あらゆる領域に関してアーリマンは書くのです。 (P232-235)

 ちょっと引用が長くなりましたが、この二十世紀末の時代において、アーリマンはあらゆる領域に働きかけています。

 モノと金の領域にアーリマンは働きかけます。この世への執着を助長させるようにアーリマンは働きかけます。科学はアーリマンの影響で発展してきましたが、そうした唯物科学を霊化していく課題を我々は担っているように思います。

 そのために、我々は何ができるでしょうか。特別なかたちではなく、日々において実践できることから考えますと、たとえば、日本では、モノをさえ「供養」する伝統をもっています。また、欠けた茶碗を愛でるように、モノを慈しむ伝統をもっています。それは、物質をたんなる物質として見るのではなく、その物質的霊性を見いだし、それを「解放」していくあり方です。柳宗悦さんの芸術運動などもその典型的なものです。それを、以前、高橋厳さんからお聞きして感動したことがあります(^^)。

 それに関連して少し言っておきますと、シュタイナーは古代においては、呼吸過程が思索と結びついていたので、ヨガの修行というのは呼吸過程を重視したといいますが、現代においてはそれは適切なあり方ではないといいます。それよりも、現代の我々は、「事物の中へ入り込んでいかなければならない」といいます。つまり、花を愛でたり、モノを慈しんだりするような知覚を通してそれらの事物を解放していく方向性です。

 アーリマンの力は偉大であり、それはそれなりに大いなる恩恵でしたが、それをそのまま放置しておくわけにはいきません。物質をただ物質として放置するというのではなく、それを解放し、霊化する営為に携わらねばならないのです。そのために、芸術や教育などの活動が重要になってきます。

 ちょっと、わかりづらい説明だったかもしれませんが、少しばかり重要なポイントですので、少し角度をかえて、あえて少しお話してみました。

 

 

 

半神でなく全人を


(95/10/26)

 

 人智学というのは、アントロポゾフィーです。それは、アントロポロギー(人類学)+フィロゾフィー(哲学)ですよね、。人智学が、教育、医学、農学、芸術などの具体的な実践をしていくのはまさにそれが人間の人間による人間のための科学だからだと思います。その点を忘れて、いわゆるオカルティックな方向に向いていくのは人智学の本来のそうした方向性を本末転倒させることだと思います。人間は人間学を通じてもっとも人間らしく生きることを通じて「神」を理解していく必要があるのだと思います。

 先日から、19世紀末〜20世紀初頭のウィーンとその周辺のシュタイナーに関連した芸術運動などについて調べているのですが、そのなかに、クレーやカンディンスキー、音楽家ではシェーンベルクなどがいました。彼らは絵画、芸術とジャンルは違え、同じ目的を持っていたようです。シェーンベルクはご存知のとおり12音音階を創始した方でもあるのですが、そのシェーンベルクは、「半神になるよりも全人であることが重要」という意味のことを強調していたようです。人間が芸術を通して「全人」へと向かっていくこと。そのことが重要だと。

 シュタイナーも、運動の最初のころは、神智学という名称を使ってましたが、それは通常の神智学とはちょっと意味あいが違ってるんですよね。神智学協会は、クリシュナムルティという救世主を擁立しようとしましたし^^;そうした方向性を潜在させている神智学をシュタイナーは決して認めるわけにはいきませんでした。それに、アニーベサントとのやりとりのなかでもわかるように、アニーベサントは、キリスト衝動が理解できなかったようなのです。だからこそ、現実の人間を救世主化しようとする傾向になってしまう^^;。

 現代でも、現実の人間が「我こそが救世主!」って言ってしまうような宗教はキリスト衝動を否定しているととらえていいんだと思います。もちろん、「わたしも救世主、あなたも救世主、みんな救世主・・・にならなきゃ」っていうのはそれとはまったく別のことなのはもちろんです。

 さて、サイコソフィー(心智学)やプネウマトソフィー(霊智学)については、あまりシュタイナーではポピュラーではなくて、ぼくもほとんど不案内なので、今後の勉強課題にしたいと思ってます。

 「人間という存在」=「矛盾した論理群に対する答え」=「人智学」なのか,ということに関しては、まさにその通りだと思います。そうした人間学としての人智学の道徳的ファンタジーにもっとも近いのが東洋では「陽明学」だとぼくは思っています(^^)。陽明学といえば、知行合一を唱った王陽明の創始した学問で、実は、例の安岡正篤さんが、その代表的な人物でもあったんですよね。その陽明学、安岡正篤さん、そしてシュタイナーをともに論じた著書も数年前にだされていたようで、大いに共感したものです(^^)。

 

 

アトランティスから中国へ


(92/11/01)

 

 中国人とアトランティス人の「霊的関係」というのはよくわかりませんが、アトランティス時代の人種とそれがその後どういう流れを通って中国に至ったかというのでしたら、説明できると思います。

 ただ、シュタイナーの場合、レムリアからいきなりアトランティスに飛んでて、その間のゴンダアナやムーという文明をすべてアトランティスにしてしまってますのでそこらへんの「みそもくそもいっしょ」的な部分は十分に考慮に入れておかなければなりません。

 僕は日本というのをムーの直系ではないかと思っています。アトランティスと重なりはしますが、それよりももっと古いムーの系譜とアトランティスの系譜がクロスしてくるのが現代の潮流かもしれないと思っているのです。ですからそのムー的な部分、つまり神道として継承されている霊的な流れについてはシュタイナーでは説明のつかないところはたくさんあるように思えます。

 せっかくですから、そこらへんについて僕の最近考えていることをちょこっとだけ説明しておきましょう。ちょっとトンダ話になりますが、宇宙生命潮流も変化期にあるということですし、封印も解かれる時期だということですので(^^;)、この際、いいでしょう(^^)。

 神道といってもそれをひとつにひっくるめて説明するわけにはいきません。(もちろんもっとたくさんの系譜にわけることも可能ですが)大きくふたつに古神道と神道というふうに分けるとすると、古神道というのは神仙道つまり道教というのと同じ根っこを持っていて、それに対して神道というのはおそらく儒教とどこか相通じるものがあります。

 こうした分け方を国津神と天津神というように分けても興味深いのですが、先日紹介したシュタイナーの天使観にあてはめてみると、国津神系というのは第一ヒエラルキアとしての神霊で、天津神系というのは、第二ヒエラルキアとしての神霊なのではないかと思います。第一ヒエラルキアは、物質的なるものに霊的に作用することのできるのに対して、第二ヒエラルキアは、物質的なるものに直接みずからを開示することはできず、エーテル的なもののなかに働く霊的−魂的なものとして自らを開示します。ちなみに第三ヒエラルキアは、純粋に霊的−魂的なものとしてみずからを開示し、人間が魂的な仕方でまったく内的に体験するもののなかで活動します。おそらく古神道にせよ神道にせよ、この第三ヒエラルキアにおいてはシュタイナーのいうルシファー的な働きがアストラル事象で作用しますので、それを嫌って、「清めたまえ、祓いたまえ」の世界でみずからを開示するのです。(ルシファーはアストラル事象にしか作用できないのです)

 で、なぜこの世紀末において国津神系の神々が復活というか活発になってきたかというと、それらの位階の神霊達は直接、物質レベルでの変革ということを役割としてもっているからではないのか、つまりこの世紀末においてはそれが必要とされるようになっているのではないか、そう僕は考えているのですか、どうでしょうか。

 また、国津神系の神々が天津神系の神々をわりとよくいわないのは(^^;)、本来第二、第三ヒエラルキアは第一ヒエラルキアに仕える存在だからかもしれません。ただ、こうした見方を神話に残っている神々と同一視するとまずいかもしれません。おそらくそれらはかなりねじ曲げられた形で表されているように思えるからです。たとえば、天照大御神は、本来、おそらく第一ヒアラルキアのセラフィム(愛の霊)ではないかと思われます。

 ま、これが当たっているかどうかは別として、どちらにせよ、日本の神々というのは、かなり高次の宇宙神霊方ということで、一般に信じられている○○大神というイメージのフィルターとは本来ちょっと違ったエネルギー体であることは確かのようです。

 このように、シュタイナーだけではなく、神道やその他の情報を比較していくとかなり興味深いファンタジーが紡ぎ出せます。もちろん、これはあくまでも僕の勝手に紡ぎ出したファンタジーですので、あまり信用できないかもしれませんが、わりとおもしろいでしょう(^^)。ただ、これらの説明はたぶん僕のオリジナル(つまり勝手な考え(^^;))ですので、他では聞けない楽しみはあると思います(^^)。

 ちょっと関係ない話をし過ぎましたが、興味があればいずれここらへんのことをミステリーの謎解きのようにひとつずつ解きほぐしてみたいとも思っているのですが、悪くすると、よけいわからなくなる可能性もありますねえ。ま、それはそれとして、本題に入りましょう。

 中国人とアトランティスとの関係をシュタイナーはどう説明しているか、ですが、これについて比較的分かりやすく説明しているのは、次の2冊です。特に前者の高橋巌さんのものが詳しく書かれているようですが、それはシュタイナーの説明に高橋巌さんが付加して説明しているところもあります。 

●高橋巌:現代の神秘学(角川選書)

●西川隆範:シュタイナーの宇宙進化論(イザラ書房)

 特に上記の資料のうち、高橋巌さんのものを参照しながら説明しますと、アトランティス期には、5つの人種に分かれて存在するようになり、その5つの人間集団が霊的存在の導きのもとに、それぞれ固有の文化を生みだし、アトランティス大陸の沈没後、さまざまに民族移動を繰り返しながら今日に至っているということですが、その後アトランティス期の人類進化のプロセスには、2つの系統があるといいます。それは北方系と南方系で、その内南方系が中国へと至っているようです。これはシュタイナーのソースではありませんが、言語についても、北方系はインド=ヨーロッパ語系のもの、南方系は中国語系のものだそうで、チャンネリングで、アトランティス語というのを聞いたことがあるのですが(^^;)、中国語のイメージにかなり似通ったものだったので、おそらくそれは南方系の方だったのだろうと推察しています。

 えっと、その北方系と南方系について、高橋巌さんの著書では次のように説明しています。 アトランティス大陸の北方から「北方の流れ」がヨーロッパ北部、中部から黒海、カスピ海北側を通ってタリム盆地に入り、そこから南下して、原インド文化、原ペルシャ文化、エジプト=カルデア文化、ギリシャ=ローマ文化第五アトランティス文化(つまり現代ヨーロッパ文化)を形成するようになりました。また、「南方の流れ」はアトランティス大陸中南部からアフリカアラビアを通り、原スメル文化を形成しました。そしてさらに北上してイラン文化を形成し、北方の系の「原ペルシャ文化」と合流しました。これが南方系の第二期に当たります。それからさらにアラル海周辺のツラン低地を通って北上し、ウラル山脈、アルタイ山脈の間で東西に分かれ、一方はシベリアから、さらにベーリング海を越えて北アメリカの方へ移動し、またはモンゴル、ツングース、さらに朝鮮半島から日本へ、または中国東部から華北北部から華北平原のほうへ南下しました。西のほうへ行ったグループはフィンランド、エストニアからハンガリーにまで移動していきました。 

これが南方系の第三ツラン文化期に当たります。そしてこの時期にこの流れ、主として黄色人種系の流れは、アジア大陸の広大な地域にシャマニズムという言葉で特徴づけられうるような、共通の文化を生み出しました。これは北方系がエジプト=カルデア期に秘儀の文化を生みだした時期と対応します。そしてさらに北方系がギリシャ=ローマ文化を形成した頃、南方系は中国を中心として、イン(漢字がでないよ!(^^;)/KAZE)、周時代から、比類のない中国文化、漢字文化を形成しました。そしてほぼ十五世紀前後から、この南方系と北方系が必然的に合流し、対立し、融合すべき現代文化期を生じさせているのです。

 ま、こういったのがシュタイナー=高橋巌さんの、アトランティスから中国にいたる民族の流れの説明でしたが、納得いきましたか。本当は、最初にも言いましたように、この流れにはムー系の流れが日本を中心として大きく存在しているようでして、その流れとも併せて、現代という時代を見ていく必要があると思います。

 さて、東京国立博物館の「創立120年記念 日本と東洋の美」展ですが、見たいですね、こういうとき田舎はハンディが大きくて困りますね。

 芸術をテーマにした部屋ですが、いいですね。ただ、誰かがお世話しないと、なかなか書き込みが増えないのも事実ですよね。ま、そうした部屋ができるまで、なんでもありの遊戯団でお話しましょ(^^)。

 クリシュナムルティの「最後の日記」ですが、僕も買ってしまいました。とっても美しくていいのですが、読むうちにいつもの通り疑問がたくさんわいてきました(^^;)。Kのいう思考というのは低次メンタルというかきわめてアストラル的な考えのことで、深い感情に裏打ちされたシュタイナーのいう直観的な思考ではないということ。それと、クリシュナムルティに「愛」があるとすれば、それは見る者の「愛」であって、供犠としての「愛」では決してないと思われること。条件づけを語るK自身の条件づけに対しては語られないこと。それからちょっと思ったのは、Kはあのヘレン・ケラーの「光の中へ」についてどれだけのことがいえるのだろうかということでした。とかいうように、結構シニカルな言い方になってしまいましたが、それはそれとして、Kの「最後の日記」はとってもみずみずしくていいですよ。実際に収録されたテープを聞いてみたいとさえ思いました。上記のようなことを前提にして読めば、かなり「意味」も深いと思います。ただ、僕としては物足りない部分、じれったい部分が相変わらずあったということです。

  


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