シュタイナーノート146

芸術


2007.12.19

   今、眼の前に拡がっているこの日常の現実の殻を破って、その核心にまで到る
  ときにのみ、この世界を内奥で支えている高次の現実が見えてくるのです。
   私たちは自然の個別現象に留まってはいられません。自然の法則を求めます。
  個々の個体に留まってはいられません。全体が見通せたとき、私たちは満足を見
  出すことができます。このことがゲーテの場合、考えうる最高に完成された形式
  をとって現れています。現実とされている個々の個体は、近代精神に満足を与え
  てくれません。なぜなら個体の中にではなく、個体を超えたところに、神的、至
  高のものが、すなわち哲学で言う理念が見い出せるからです。この事実にゲーテ
  もまた忠実な態度をとっています。単なる経験は、現実ではあっても、まだ理念
  ではありませんから、個々の対立を宥和させることができません。一方、学問は
  理念を持っているのですが、現実を持っていないので、学問もこの宥和を可能に
  することができません。私たちは、現実と理念との間に、新しい領域を持つ必要
  があるのです。そこではすでに個別が、全体を持つことなく、理念を顕し、個体
  がすでに普遍と必然の性格を顕しているような、そういう領域をです。そのよう
  な世界は、現実の中には存在していませんから、人間がまず自分でその世界を創
  造しなければなりません。そしてそのような世界こそが芸術の世界なのです。芸
  術という、感性界と理性界に並ぶ、第三の必然的世界なのです。
   美学は、芸術をこの第三の世界として理解する、という課題を担っています。
  自然の事物には欠けている神的なものを、自然の事物の中に植え込むことが、芸
  術家に与えられた高い使命なのです。芸術家はいわば神の領域を地上にもたらし
  ます。
  (シュタイナー『新しい美学の父ゲーテ』ウィーン、1899.11.9
   『シュタイナーコレクション7/芸術の贈りもの』(筑摩書房)所収)

美的機能はプラグマティックな機能では説明できない。
プラグマティックな意味では、美は目的や意味を持ち得ない。
とはいえ、美を、この地上の感覚的な存在を離れて理解することはできないだろう。
重要なのは、感覚的なものであると同時に、
プラグマティックな機能をも持ち得るものをもとに、
それを超えたものがそこに創造され得るということなのである。

自然は素晴らしい!ということはできる。
しかし、自然の事物にはなにかが欠けている。
欠けているというよりも、
それらは、「高次の自然」に向けて変容することではじめて、
自然が変容を始めることができるといったほうが適切かもしれない。

ある意味で、マニ教の神話にも似ている部分があるかもしれない。
「闇の王子」であるアーリマンは「光の王国」を手に入れたいと思った。
「光明の父」であるアフラマズダは、戦いのために「闇の王国」へと下るが
戦いに敗れ、闇に呑み込まれてしまう。
やがてアフラマズダは救われるが、
光の元素は小さく砕けて多数の闇の眷属に呑み込まれてしまって救いだせない。
しかし、その光の元素は、闇にとっては毒になる。
囚われている光の粒子を救い出そうとする戦いは続いている。
そのためには、閉じこめている物質が壊されると開放されるのだという。
(上記内容は、山本由美子『マニ教とゾロアスター教/世界史リブレット4』
 山川出版社の内容をもとに紹介したもの)

私たちが囲まれているさまざまな自然は
そのままでは、ある意味では囚われた状態である。
それを解放するためには、
とらわれている「光の粒子」を見出し、
それを自然に植え込むことで、
「高次の自然」を創造しなければならない。
それが、芸術の真の役割である。

そうした視点に立ってみてはじめて、
単に感覚的なものや、理念的なものでは可能にはならない、
それらをつなぎ、高次の自然へと向かうことを可能にする
芸術ということがはじめて理解されるようになる。

芸術のない人生がまったく味気ないものとなるのは
ただただモノや感覚的なものにとらわれてしまうか
逆に、からだや自然などをなおざりにする仕方になるか
そういう極端なあり方のなかで、
どこにも行けなくなってしまうからである。

自由にもっとも近しいのも、芸術である。
その目的は、外的なものではなく、
それそのもののなかにあるからである。
自由もまた、自らの由そのもののなかに目的を有している。