シュタイナーノート145

鉱物界とキリストの復活


2007.11.19

   われわれはこの地上に生きて、鉱物界を変容させます。そして、われわ れの霊性、
  すなわち精神によって、家を建てたり、機械を作ったりして文明を築いて きました。
  しかし、一見非常に物質的で低次の世界である鉱物界は、実は最も高次の神界に直
  結しているのです。一番深いところと一番高いところが通じている。われわれの時
  代のことをシュタイナーは「鉱物の時代」と呼んでいますが、その特性として、一
  見霊的に見えないようなことが、実は霊的な世界に繋がっているというようなこと
  もあり得るのです。
  (・・・)
   鉱物界の問題は非常に大きな意味をもっています。ルドルフ・シュタイナーに
  言わせますと、われわれ現代人は今、ある特別な時代に生きているのです。それ
  をシュタイナーは「鉱物の時代」と言っています。植物の時代でもなく、動物の
  時代でもない、鉱物の時代にわれわれは生きているというのです。そしてこの鉱
  物の時代に生きるということが、現在の人類の運命的な課題であると同時に大き
  な使命でもあるのです。

  (小林直生『宝石と四季のお祭り/シュタイナー鉱物論入門』 2007.3.3.発行/涼風書林)

霊的なものを認識しようとする場合、陥りやすい錯誤のひとつに、
霊的なものは高次で、物質的なものは低次だというとらえ方がある。
ピラミッド上のイメージで高次ー低次を固定的に見てしまうのである。

そうした見方をしている場合、
たとえばキリストを理解することができなくなるし、
私たちが通常目にしている世界のほとんどでもある鉱物界のことも、
その鉱物界とキリストの密接なかかわりのこともわからなくなる。

そうなると、ルシファー的な傾向が強化されるだろうし、
霊的な視点が失われた場合は、アーリマン的な傾向が強化されることになる。
実際のところ、そのふたつの極は、相互に強化されやすくなる。

パウロがキリストの復活にこだわったのも、
キリストの復活体である、本来の肉体「ファントム」の重要性が
わかっていたからである。

  シュタイナーは復活体とも、本来の肉体とも呼んでいる。「失楽園」以前、ファン
  トム体は物質よりも優位に立ち、物質を支配していたが、後に物質に支配され、今
  の我々の肉体が生じた。そして本来、「神の似姿」として創造されたこの人間の体
  を、自ら物質を克服し新たにしたのが、キリストの復活であった。それ以降、我々
  にも物質に支配されない肉体を十全に持つ可能性がキリストから与えられた。死す
  る肉体をもたらしたのはアダムだが、このファントム体を新たに人間にもたらした
  のはキリストである。だからキリストのことを「第二のアダム」とも呼ぶ。シュタ
  イナーの「キリスト論」の中で最も理解するのが難しい概念のひとつである。

久しぶりに、キリスト者共同体のホームページをのぞいてみたところ、
小林直生『宝石と四季のお祭り/シュタイナー鉱物論入門』が刊行されている のを知り、
早速一読したところ、上記のような非常に重要なテーマについて
わかりやすく書かれていたので早速ご紹介してみようと思った。
なにより、小林直生さんが鉱物少年であったのに深く共感。
小林直生さんの先生であるFriedrich Beneschさんも
鉱物への造詣が深いということにも深く納得させられた。
実際、鉱物への認識・関心はキリストへの理解のために不可欠な視点でもある のである。
一昨年のこと、yuccaが“Der Turmalin”という
トルマリン の写真が多数載った大きな図鑑のような書籍を入手していたのけれど、
その著者こそが、Friedrich Beneschさんだったことがわかり、深く納得。

さて、古事記や日本書紀では、ニニギの元に嫁いたイワナガヒメ(石長比売、 磐長姫)が
醜いといって父のオオヤマツミに送り返される。
コノハナサクヤヒメは、天孫が花のように繁栄するように、
イワナガヒメは、天孫が岩のように永遠のものとなるように、
ということで嫁がせたのだけれど、
その「永遠のものとなるように」という部分が拒否されてしまったわけである。

日本では、「花」は賛美されるが、鉱物が賛美されることはあまりない。
昨今は、パワーストーンとかいうことで若干注目はされるようになってきてい るものの、
実際に、鉱物への深い認識・関心が育っているということでは必ずしもなさそうで、
日本で、シュタイナーのいう「キリスト」及び「キリスト衝動」が受容されがたいのも
そうした、霊性への錯誤された認識様態が影響しているということもあるので はないだろうか。