シュタイナーノート144

神智学・人智学・人類学


2007.10.22

   神智学は山頂に立ちますが、人智学は山腹に立って、上を見上げたり、
  下を見下ろしたりします。明らかに立っている場所と観点とが違うのです。
  (…)
   神智学の立脚点である山頂は、人間を超えており、一方、通常の人の認
  識対象は人間の足下にあります。ですから、人間自身は自然界と霊界の中
  間に立っていると言えます。上なるものが人間の中に入り込みますと、人
  間は霊に充たされた存在になります。しかし人間は、自分の上に仰ぎ見る
  霊の山頂から出発するのではありません。山頂は自分の上にあるのです。
  そして、単なる自然は自分の下に横たわって、下から人間の中に働きかけ
  てきます。
  (…)
   「人類学」という学問があります。現在盛んなこの学問は、単に人間だ
  けではなく、人間に属するすべて、人間が自然の中で経験することのでき
  るすべて、人間を理解するために必要なすべてを扱います。
   この学問は事物のもとを歩き廻るフィールドワークから出発します。そ
  の学問そのものがまったく下にあって、ひとつからひとつへと移ります。
  その研究の仕方は、顕微鏡の助けをかり、感覚を働かせて人間的なものを
  考察するのです。
  (…)
   どうぞこの人類学と神智学とを対比してください。神智学は至高の高み
  に昇って、人生のもっとも緊急の問いに答えを見出そうとします。皆さん
  も経験されたことと思いますが、ゆっくりとしたテンポで神智学に関わろ
  うとしない人たちがいます。私たちがここ数年間に述べてきたすべてには
  見向きもしないで、つい人類学の立場に留まったままで、神智学を空気み
  たいな思想であり、土台のまったくない建造物のようなものだと性急に思
  ってしまいます。ですから魂が一段一段、人生から人生へと上昇していく
  ことを洞察できず、人間と宇宙の生成の目標を見通すこともできません。
  (ルドルフ・シュタイナー『人智学・心智学・霊智学』
   ちくま文庫 2007.10.10.発行 P.11-14)

人智学と神智学は混同されやすいところがあるのだけれど、
このように神智学ー人智学ー人類学を対比することで
人智学という「場所」と「観点」がなぜ重要なのかを、
神智学でも人類学でもとることのできないあり方をイメージすることで
おおまかにではあれ、とらえることができるように思われる。

私たち一人ひとりは人間なので、
いきなり山頂から見下ろす視点は、
(ときには、自分の住んでいるところを外から遠望するという意味では、
それなりに意味のあることではあるけれど)
その視点だけしか持てないとすれば、
日々を生きていく力にすることはむずかしくなる。

逆に、自分の目で感覚的に実際に見える範囲だけを歩き回るというのは、
たしかに、私たちはそうして生きているのではあるけれど、
自分がいったいどこにいるのかを見渡すことはできないままになる。
自分の生活感というかそれにともなった通常の経験だけがすべてであるとすれば、
ある意味で、それは二次元的な生であって、
迷路を三次元的に上から見れば、
自分の迷い込んでいるところがどこなのかは
比較的に容易に見渡すことができるようになる。

しかし、いくら三次元的に上から見ることができるといっても、
その迷路を山頂から見ようとしても、
今度は遠く離れすぎていて、どうすることもできない。

私たちが今もっとも必要としている「場所」と「観点」が
いったいどのようなものなのかを考えてみるとき、
人智学というスタンスの重要性があらためてわかるようになる。
その点をひとつとってみても、
人智学が「中道」的なスタンスであることがわかる。
上の観点も下の観点もともに、
私たち人間の視点でとらえることが可能になる。
神がかる必要も、地をアリのように這う必要もない。

世にある視点は、いきなり人間を動物化してしまう視点と
宗教的な神がかった視点の反復横跳びであることが多く、
互いがあまりにもかけはなれすぎてしまって
リンクできなくなっているように見える。

そうでなければ、
俗的な占いやヒーリングといったものに堕しがちな精神世界的なあり方や
スピリチュアリズム的なかたちのカウンセリング的なあり方など、
神智学も人類学にもつながらることのできないような
きわめて中途半端なものにもなりかねない。

今ここからはじめることができ、
しかも地を這うだけでもなく、
また、今ここが見えなくなってしまうような山頂に座るのでもない、
しかもそのどちらをも射程に置くことができるような
そんな「場所」と「観点」を可能にするがゆえに
人智学は現代においてもっとも可能性をもっていると
少なくともぼくは常々考えているのだが・・・。