シュタイナーノート143

「父」のいない世界で


2007.10.2

   「父のいない世界において、地図もガイドラインも革命綱領も『政治的に正し
  いふるまい方』のマニュアルも何もない状態に放置された状態から、私たちはそ
  れでも『何かよきもの』を達成できるか?」
   これが村上文学に伏流する「問い」である。
   「善悪」の汎通的基準がない世界で「善」をなすこと。「正否」の絶対的基準
  がない世界で「正義」を行なうこと。それが絶望的に困難な仕事であることは誰
  にもわかる。けれども、この絶望的に困難な仕事に今自分は直面しているという
  感覚はおそらく世界の多くの人々に共有されていると信じたい。
  (内田樹『村上春樹にご用心』アルテススパブリッシング/2007.10.9.発行/P.41)

シュタイナーノートなのに、村上春樹に関する引用なので、
あれ?と思われた方もあるかもしれないが、
これを読んでいて、ちょうど先日佐々木義之さんの訳された
『人智学的共同体形成』 第8講 の次の箇所と
共同体についてのとてもむずかしい課題について考えるところがあった。
それは、「意識魂」に関する次の箇所である。
 
   親愛なる友人の皆さん、今日の若者たちが有しているのは、人間進化という
  舞台においてその姿を現し始めている魂の経験である、というのが本当のとこ
  ろなのです。この事実はジェネレーションギャップというような抽象的で表面
  的な言い方で総括されるべきものではありません。ある意味で、そのようなギ
  ャップはいつの時代にも存在していました。特にそれが際だっていたのは、学
  校教育の場で人生に備える、若く、強力な個性たちにおいてでした。
  (…)
   19世紀の最後の3分の1に至るまで、今日の人々によって表面的に語られ
  るジェネレーションギャップはいつでも存在していました。しかし、それは善
  き俗物主義の中に解消されていたのです。そして、若者たちは俗物的な特徴を
  徐々に吸収するようになり、いつの時代でもそうであったように、その先輩た
  ちから引き継いだものの中へと入っていきました。
   けれども、それは今日ではもはや不可能なのです。東洋の叡智から借りてき
  た用語を使うならば、それはカリ・ユガが終わったときに不可能になった、何
  故なら、それ以降の社会生活はもはやそれまでのような権威主義の原則によっ
  て支配されてはいないのだから、と言わなければならないでしょう。人類の進
  化が意識魂の段階にあるということが、ますます顕著な影響を及ぼすようにな
  ったのです。
  (…)
   私たちの文化、私たちの文明は、過去にはいつでも可能であった若者と大人
  の間の問題を、特に学校現場において、解決することがもはや不可能なような
  形態を取っているからです。若い人々はそのことを彼らの内的な運命であると
  感じています。彼らの人生のあらゆる側面はそれによって形成されますが、そ
  れは、全く特定の渇望や要求をもって人生にアプローチする、ということを意
  味しています。そのことは今日の若い人たちに求道者になりやすい傾向をもた
  らしています。とはいえ、それは大人たちとは全く異なるタイプの求道者です。
  (シュタイナー 『人智学的共同体形成』 第8講 より 佐々木義之さん 訳)
   http://www.bekkoame.ne.jp/~topos/steiner2/sasaki/GA257/GA257-8.htm

今でも、「父」、つまり「神」のような絶対的権威に類するものに
半ば恐れ、半ば盲信するがゆえに、従っている人たちは思いのほか多い。
「そういうものだ」ということで
ある種の権威から発想するあり方はすべからくそうである。
偏差値や学歴、お金の多寡、血縁、性別、社会階層、宗教の別その他、
それは、あらゆるものに及び「正しいこと」「そうすべきこと」を教えてくれる。
そしてそれは、それに対する戦いを行なうことにおいてもまた
絶対的権威へのアンチでしかないという構図をつくりあげている。
(アンチもまた、権威でしかないからである)

しかし、意識魂の時代において、
父権ないしアンチ父権といった構図は根底から覆される。
私たちはそれらなしで、歩き始めなければならない。
ときにそれは、とほうもなく稚拙なものとなる。
「正しいもの」をだれも教えてくれない。
自分が考え、見聞きし、歩いたその地図だけが、
そしてそこからあえてみずからがつかみとった
『何かよきもの』だけがすべてである。

それはとほうもなく困難なことであるのはいうまでもない。
そして、プログラムされたもののなかで、
みずからをプログラムそのものの従者として
なにか正しきこと、良きことをする者の目からみれば、
愚かで馬鹿馬鹿しいものとしか見えないだろう。

共同体に関するとらえ方にしても、
「正しいこと」を事細かに定めたあり方は
意識魂の時代にふさわしいものではない。
上記の講演のなかで、「献身と犠牲の精神をもって」つくられた
詳細な記録としての「カードファイル」の話がでてくる。
「カードファイル」をつくることが自己目的化されて
本来のものが見失われてしまっているような状況である。

そこでシュタイナーは言う。

   私は、「よろしいですか、親愛なる友人の皆さん、皆さんはカードファイルの
  他に、頭もお持ちですね?私は皆さんのカードには全く興味がありません。興味
  があるのは皆さんの頭の中にあることだけです。」と言いました。

役所のような場所にいってなんらかの質問をしたときに、
記録されたもの、規則、前例のあることなどなどが問題となり、
決して「現実」にたどり着けないことがイメージされる。
たとえば、「どうしてあの人は死んだのですか?」という嘆きの問いに、
「献身と犠牲の精神をもって」 事実の詳細な記録で答えようとするようなもの。
ある意味で、教育や医療の現場にもそういうことが起こっているようにも思われる。
もちろんそれに答えるのは「絶望的に困難な」ことである。

しかし、その「絶望的に困難な」ことをはじめるのでなければ、
なにも可能にはならないというのが、意識魂の道でもあるのだろう。

内田樹のとらえる村上春樹の「問い」は、
その「絶望的に困難な」なかで、「『何かよきもの』を達成できるか?」である。
その感覚が「世界の多くの人々に共有されている」かもしれないことは、
意識魂の時代のひとつの希望のようにも見える。
それは、ある意味で、「父」の時代への逆行にもなりかねない共同体のあり方を
考え直す示唆にもなり得るのではないだろうか。