シュタイナーノート142

アイデアとしての忍耐


2007.9.11

   (私たちの協会が依って立つ基盤と似た基盤の上に打ち立てられた)協会の
  歴史に通じている人たちは、友愛と精神的な洞察の上に築かれるこれらの協会
  こそが、最もひどく、いさかいに悩まされる、ということを知っています。そ
  れらの協会は、闘争、人生の分かれ道、より大きなグループ内での各派閥への
  分裂、グループの解消、留まる者たちへの、あるいは離れていく者たちへの激
  しい攻撃等々に対する最も幅広い機会を提供します。要するに、人間的な争い
  は、友愛へと捧げられたグループの中で最たるものになるのです。
  (・・・)
   超感覚的な世界が語ることを聞くために集まった人々が単に通常の心の状態
  のままでそれを聞くとしたら、殴り合いになる可能性が大きいのです。その可
  能性は測りがたいほど大きいのですが、それは、そのような人々は当然の結果
  として利己主義者になるからです。
   それに対する強力な治療法は確かに存在しています。しかし、それが可能に
  なるのは、人間の魂がそれを発達させるときだけです。私が言っているのは、
  本当に偽りのない忍耐のことです。とはいえ、私たちはそれに向かって自己教
  育する必要があります。
   (・・・)
   人々が、より高次の世界についての教えから自分たちが理解していると考え
  ていることがらに、その通常の魂的な習慣を適用するとき、必然的にいさかい
  や利己主義が発現するのです。
   (・・・)
   こうして、人がより高次の世界について夢見るとき、そこから受け取る衝動
  が最高度の統合や最高の忍耐力を生じさせることはありません。より高次の世
  界についての研究の報償であり得る統合の代わりに、いさかいやけんかが生じ、
  拡大し続けます。精神的な世界への洞察を得ようとするあれこれの方法に基づ
  く協会の中で行われる声高な論争の原因とは、そのようなものなのです。

  (シュタイナー 『人智学的共同体形成』 第7講 より 佐々木義之さん 訳)
   http://www.bekkoame.ne.jp/~topos/steiner2/sasaki/GA257/GA257-7.htm

今、佐々木義之さんの訳してくださっている
『人智学的共同体形成』を読みながらいつも感じることがある。

一人でいられなくて群れるということと
友愛的に集うということは、
ちょっと目にはそんなに違いがなさそうに見えるのだけれど、
実際問題として、相反するもので、
シュタイナーは、いちどは
そのふたつの方向性を解決することを放棄しかけるのだけれど、
それでもなんとか思いとどまって、
なんとかするためにこの講義をしている・・・。

このことで、ちょっと思い出したのが、
今、「ほぼ日」で連載している
「任天堂の岩田社長が遊びに来たので、
みんなでご飯を食べながら話を聞いたのだ」のなかの
「アイデアというのは
 複数の問題を一気に解決するものである」
という話だった。
http://www.1101.com/iwata/2007-08-31.html

  岩田 どんなものでもそうだと思うんですけど、
     なにかをつくるときって、
     「あちらを立てればこちらが立たず」
     という問題がつねにあるわけです。
     だから、なにかのことに対して、
     「こうしたらよくできる」
     「こうしたら悪くなる」
     という選択があるわけですが、
     現実になにか商品をつくるときには、
     「ひとつだけ困ったことがある」という
     恵まれた状態になることなんてまずなくて、
     あちこちに困ったことがいくつもあるんです。

  岩田 それは、商品だけじゃなくて、
     組織もそうだし、対人関係もそうだし。
     そういったことに対して、
     「これは、こうだから、こうしたらいいんです」
     って、ひとつだけ改善したとしても
     全体を前進させることはできない。
     ひとつ努力してよくしたとしても、
     なんらかの副作用が出てきますし、
     いままでうまくいってたことが
     うまくいかなくなったりもします。
     だから、アイデアを出す会議などで、
     「この問題をどうしよう?」
     ということを話し合っているときに、
     当然いろんな人がいろんなこと言うんですけど、
     たいていそれは、ひとつの問題を解決するだけで、
     ほかの問題を解決させるわけではない。
     つまり、汗をかいた分しか前進しないんです

シュタイナーは、「いさかい」「けんか」「殴り合い」「激しい攻撃」・・・
といったような表現さえしている。
ひどくきびしい状況であることがよく伝わってくる。

霊的なものを扱っているところで
通常の意識をもって臨んでしまうと、
ふつうの集まりよりも激しくエゴイズムがぶつかりあう。
そういうことをなくすためにも、
「忍耐」へと向かう「自己教育」が必要である
とシュタイナーは言う。

上記の岩田さんの話をもじっていえば、
それぞれが自分が問題だと思っている
「ひとつの問題」を解決しようと思っているだけで、
「ほかの問題」を解決することのほうに目が向いていない。
ここで重要なのは、「複数の問題」、
つまり、自分が問題だと思っていることと
ほかの人が問題だと思っていることの
両方を解決するための「アイデア」を検討することなのだ。
そのためにはそれぞれが、
「忍耐」という「自己教育」をするという「アイデア」を
実践していく必要がある。

霊的なものが深く関わる集団においては、
そうでない集団におけるのとは異なったベクトルの問題が
地下のマグマのように無意識のところから噴出してくる。
それを想定した姿勢をもっていなければ、
エゴイズムというマグマにやられて
「共同体」は壊滅してしまうしかなくなる、というわけである。

さらにいえば、こういうことでもあるだろう。
わたしたちの意識の状態は、ふつう、
眠っているか起きているか、夢を見ているかの3種類だが、
実際のところ、私たちはこうして起きているあいだも、
ほとんどが夢をみながら眠りこけている状態でしかない。
そういう状態であるにもかかわらず、
霊的なことに関心を持ち、「高次の世界について夢見るとき」、
往々にしてエゴイズムを加速させかねない状態になるのは、
自分が眠りこけていることに気づけずにいるからであるといえる。

では、どうすればいいのだろう、ということで、
解決のためには、「忍耐」への「自己教育」が必要であると
シュタイナーは述べているわけである。

しかし、エゴイズムのマグマが噴出しているひとたちに
単に「忍耐が必要ですよ」といっても、
結局は、「やっぱり、あいつがわるい」
「いっしょになんかやってられない」
ということになるのは目に見えている。
そして、実際にそうなってしまったところがたくさんあるのだろう。

そもそもやりたいことが最初から違っていたということもある。
また、精神科学についてまるで知らないけれど、
走り回っていないとなんか面白くない、という人と
自分の勝手につくりあげた教条のなかで
「あれはいけない、これはいけない」という
規則のための規則が好きな人とがいて、
お互いがゆずりえあえる余地が少ないというのもあっただろう。
それと、あの切迫した時代状況である。

そうした状況で、
シュタイナーは「忍耐」への「自己教育」をいった。
それはどのような「アイデア」だったのだろうか。
たんに、我慢しなさい、
自分のエゴイズムをなんとかしなさい、だけではなかったはずである。
「忍耐」への「自己教育」が
それぞれにとって有益になるためには
どのようにそれをとらえる必要があるかということを考えてみたい。

まず、「忍耐」というのは、ただ外的なものの攻撃に耐えるというような
受動的で消極的な行為では決してないことを確認する必要がある。
「忍耐」を、自分に対してだけではなく、相手に対しても、
しっかりと目を覚ましているための極的な行動としてとらえなければ、
忍耐のために、じっと黙って堪え忍ぶだけになってしまう。
「忍耐」は、むしろ
自分がそれまで目をふさいでいたことに対して、積極的に見る訓練でもある。
「忍耐」 を無理解や狭量を肯定する道具にしてはならない。

たとえば、相手のことが理解できないとする。
理解できないのは、自分が理解できないのが理由であって、
相手が理由なのではないことに気づく必要がある。
相手のことが許せないとする。
では、相手の何が許せないのだろう。
そしてそれをなぜ許すことができないのだろうか。
その許せないという自分の根拠に光を当ててみなければならない。
自分のなかのエゴイズムがそこにかかわってはいないだろうか。
もし自分が正しいとしかどうしても思えないとしても、
その正しいと思う自分の根拠はどこにあるのだろうか。
そこに固定観念や自分の無理解はないだろうか。
そして今「許せない」という状況をつくっている
目に見えないさまざまな関わりについても目を向けてみる必要がある。

そうすることではじめて、
「忍耐」は「自己教育」への道に向かって開かれることになる。
そしてそのことで、「複数の問題」を解決するための準備ともなる。
自分の問題と相手の問題の矛盾に見えるもの、
自分のなかで解決できないと思っているさまざまな問題・・・など。

ある意味で、「共同体」というのは、
そうした「複数の問題」を解決するための
「アイデア」を積極的に要求する場だともいえるかもしれない。
その意味でいえば、「自分だけの問題」を解決するために
「共同体」に参加することは意味をなさない。
もちろん、「他者だけの問題」を「解決してあげる」
ようなエゴイズムの裏返しであることも意味がない。

そのためにも、むしろ、
ともすれば、自と他、そして自分のなかにあって
隠蔽されてきているさまざまな矛盾を解決するための
「アイデア」を出し合う場にする必要があるのだろう。
そしてそのために、シュタイナーが必要なことだといったのが
「忍耐」への自己教育なのだと、とらえてみたい。