誘惑者はすべて神秘学徒の「自我」を、硬化させ、自己閉鎖的なも
のにしようと企んでいる。彼は自分の自我を世界に向かって開かれた
ものにしなければならない。そのためにはまず世界に向かって楽しみ
を求めなければならない。なぜならそれによってのみ、世界は彼の方
に近寄ってくるのだから。楽しみに対して鈍感であるなら、周囲から
養分を摂取することを忘れた植物に等しくなるであろう。しかし楽し
みの下にいつまでも留まり続けようとする態度もまた自己閉鎖的であ
る。そのような彼は自分にとっては何物かであり得ても、世界にとっ
ては無に等しい。彼はその限り、どれ程内部で活動的な生をいとなみ、
「自我」を大きく育成していったとしても、世界は彼を無視してしま
うであろう。世界にとって彼は死んでいるに等しい。神秘学徒は楽し
みをもっぱら、世界のために自己を高貴な存在にしようとする彼の意
図の手段と見なすべきである。
(シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を得るか』
「第八版のあとがき」より ちくま学芸文庫/高橋巌訳/P.34-35)
いわゆる「宗教的」で「禁欲」を美徳だと思っているいる人は、
「まず世界に向かって楽しみを求めなければならない」というと、
間違っているのではないか、と思ってしまうのではないだろうか。
しかし、私たちがこうして生きているということは、
いわば、世界を呼吸して生きる必要があるということであって、
その呼吸をやめてしまうということは、
生きることをやめてしまうことに等しいということができる。
そういう意味で、「世界に向かって楽しみを求め」るということは、
世界を自分から積極的に摂取することであるということもできる。
禁欲のための禁欲は、ただの自己満足にすぎない。
しかもそれはともすれば、世界から自らを閉ざすことにもなりかねない。
だから、世界にむかって自らを開く必要があり、
そのために「楽しみを求める」ということを肯定する必要がある。
しかし、だからといって、楽しむために楽しむ、
気ばらしのために気ばらしをするのも、自己閉鎖的である。
日本仏教の「本覚思想」の陥穽として、
自覚のためのさまざまなプロセスとしての否定的契機を捨象してしまい、
快楽等もすべて肯定してしまうというのがあるが、
それでは、楽しみを自己目的化してしまうだけになる。
自己目的化した楽しみは、自己目的化した禁欲と同様、自己閉鎖的なのである。
見ることも、見るために見るのではなく、
見ることをみずからの養分にする必要がある。
聞くことも、聞くために聞くのではなく、
聞くことをみずからの養分にする必要がある。
楽しみを手段として用いるときに、
しかも「世界のために自己を高貴な存在にしようとする意図」のための
手段として用いるときに、楽しみはいわば真のアムリタになる。
とはいえ、なかなか
「世界のために自己を高貴な存在にしようとする意図」のために
「楽しみを手段にする」というのは、ぼくのような凡人にはむずかしい。
せめて、「暇だから気ばらしでもするか」とか
「つまらないから、なんか楽しいこと探すか」とかいうような
小人閑居してなんとやら、というようなことを
習慣にせざるをえないようなことだけにはなりたくないものである。 |