シュタイナーノート137

『いか超』を読み直して


2007.5.7

   本書は人間全体を完全に変化させるための指導書であるかのように見える。
  しかし正しく読めば、超感覚的世界に係わろうとする人にとって、どのような
  魂の在り方が必要であるか、ということ以外に何も語ろうとしていないことに
  気づくであろう。この魂の在り方を、人は第二の本性として自分の中に育成す
  る。一方これまでの健全な本性もまた従来通りの仕方で生活し続ける。修行者
  は、二種類の本性を意識的に区別し、両者を相互に正しい仕方で作用させ合う
  ことができる。そのようにして修行者はこの世の生活を無意味なものにしたり、
  人生に対する興味や能力を失ったり、「一日中神秘道の修行者」であったりす
  る危険性から護られている。勿論超感覚的世界の体験によって得た認識の光は、
  その輝きをその人全体に投げかけるであろう。しかしそれは人を人生航路から
  そらせるような仕方で為されるのではなく、もっと有能な、もっと生産的な存
  在にするような仕方で為される。ーーそれにも拘わらず、本書が読者の前に提
  供されているような記述内容にならざるを得なかったのは次のことに由来する。
  すなわち超感覚的なものに対する認識行為のためには人間の全存在が要求され
  るということ、それ故このような認識行為に没頭する瞬間には、人間のあらゆ
  る力をそこに結集せざるを得ないということに。色彩を知覚するためには眼と
  視神経といった部分だけが要求されるとすれば、超感覚的認識行為は人間全体
  を要求するのである。人間全体が「眼」となり、「耳」となる。そうであるか
  らこそ、超感覚的な認識の過程を述べるに際しては、人間の変革が問題である
  かのように思えてくるのである。その結果、通常の人間は正しい在り方をして
  いない、まったく別の存在にならねばならない、と人は考えるようになる。
  (シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を得るか』
   「第八版のあとがき」より ちくま学芸文庫/高橋巌訳/P.264-265)

『いかにして超感覚的世界の認識を得るか』については、
「神秘修行の諸条件」の章まで、読書ノートのような形で書いてみたことがあり、
トポスのホームページにも、とりあえず掲載している。
その最初のものの日付をみると、92年の3月25日とあり、
すでに15年以上経っていることになる。

GWに比較的静かに過ごすことのできた時間があったので、
久しぶりにじっくりと読み返してみることにした。
最初に読んだのは20年ほど前のこと。
読みながら、涙がにじんできたことを今でも覚えている。
それ以来、何度読み返しただろう。
そのたびごとに、まるで初めて読むときのような新鮮な感動を得る。
ぼくの魂は少しなりとも「正しい在り方」にむけて
歩んできているだろうかと自問自答してみる。

この書を「超能力開発」や「超感覚的世界」をのぞき見るための
マニュアル書のように読み進める人もいるかもしれないが、
そういう人は、本書を読み通すことはできないおそらくできないだろうし、
読み通すことができたとしても、
そういう人が望んでいるような内容を見つけることはおそらくできないだろう。

上記引用にも示されているように、
そして、ちゃんと読むことさえできれば誤解しようもないだろうように、
人間の変革は、本書の目的ではない。
そうでなくて、本来、人間が人間であるために歩まねばならない道を示し
それを歩む必要性だけがここには示されている。
今の自分を変革しなければならない、
つまりは、「超能力」を獲得することが目的だなどと思いこむのだとしたら、
それはただ自分があまりにも道を外れているということにすぎないだろう。
それはある意味、シュタイナーのいう「黒い道」にも繋がる道だろう。

本書には、「境域の小守護霊」という、
いわば自分の魂がこれまでつくりあげてきた
鏡のような存在のことも述べられている。
その存在が醜い姿で現れてくるというのは、
まさに自分はまったく完成にはほど遠いことを
否応なく示してくれるということに他ならない。
その醜さを自分そのものだと認めなければならない。

人間完成にはほど遠い自分であるということを
本書は、徹底的ともいえるかたちで示してくれるが、
本書を読む感動は、まさにその部分にあるともいえるかもしれない。
少なくとも本書を読むことで、自分に何が徹底的に欠けているか、
その欠けているものをわずかなりとも補うためには何が必要なのかということを
おそらく過不足なく示してくれている。

「神秘修行の諸条件」のなかに、
その「条件」をみたすということは「常にひとつの自由なる行為であるべきだし、
そういう行為であらねばならない」とある。
決してその要求は「魂と良心とに対する強制」ではない。
その点をとりちがえたときに、
ある人は、導師からの強制的指導のようなものを必要としたり、
「自由」からではなく宗教的な教えのようなものからのものになってしまう。

いかに今の自分が人間完成からはほど遠いと思えるとしても、
それに向けて「自由なる行為」としてわずかなりと歩み続ける喜びを
本書はおりにふれて実感させてくれるのである。

かつて、15年ほど前に自分で書いたものを読み返してみて、
当時自分が何を本書から読み取ろうとしていたのかをあらためて思い出した。
今、書くとしたらおそらく少し別の視点から書いただろうと思うところもある。
というより、今回読み直してみたことからいうと、
さりげなくふれられていることのなかに宝物のような示唆があったりするのに
ようやく気づくこともできるようになった、という感慨もある。

時間の許すときにでも、そうした部分について、
何か書いてみようかとも思っている。