シュタイナーノート135

上方と下降の一致としてのキリスト衝動


2007.4.15

    一方で私たちは、宇宙の彼方へ向かっていき、そして空間の彼方のいた
   るところにキリスト原則を見出します。そして他方、地下の諸世界の領域
   へ下降するときも、一切の個人的なものから自由でいられます。私たちを
   超えているものを、この両方で見出すのです。私たちは宇宙の彼方で、分
   散したり、飛散したりしないで、上の神々の世界を見出します。下降する
   私たちは、真の神々の世界に入っていきます。
    そして、私たちを私たち自身の中へ導くものと、私たちを宇宙の彼方へ
   導くものとは、最後に一つの円環となるのです。私たち自身が最後には、
   私たち自身の外で出会うのです。意志の領域へ降りていくと、まるで自分
   が燃焼されてしまうかのようです。空間の彼方では、まるで無の中に飛散
   してしまうかのようです。今、この意志の領域と空間の彼方とが出会うの
   です。外なる宇宙での私たちの思いと、内部での私たちの意志とが一つに
   結ばれるのです。そして意志に満たされた思考、意志する思考になるので
   す。
   (…)
    こうして円環が閉じられます。私たちはこうして私たちに向かってくる
   魂の試練を通過するのです。そうでないときは、自分の魂の弱さ故に、無
   の中へ入っていくしかありません。しかし大きすぎる自我によって、自己
   中心的で利己的な魂によって、自分の内部へ降りていくなら、私たちを魂
   の試練に導くことはあっても、真の実在を何も見出すことはないのです。
   (…)
    キリスト衝動は、次第に円環を閉ざすことができるように、私たちを導
   きます。そして空間の彼方での意志に満ちた思考を、それ故本質的な思考
   の営みを認識させてくれます。魂の試練がこのようにして私たちを更に導
   いていくとき、私たちの魂は浄化されます。私たちは下降することで、境
   域の守護霊が教える利己主義の誘因のすべてを通過しなければなりません
   が、そうすることで私たちは、空間の彼方で飛散し、空虚さへの恐怖を感
   じるきっかけとなるすべてからも守られるのです。
   (ルドルフ・シュタイナー『ギリシアの神話と秘儀』第10講より
    シュタイナーコレクション4『神々との出会い』筑摩書房 所収 P.274-276)

シュタイナーは、外に、宇宙に向かっていく意識は無の中に解消されてしまい、
内に、自分自身のなかへ向かっていく意識は、衝動と本能にさらされ、
かぎりない利己主義に陥ってしまうという。

つまり、現代の科学が行っているような自然認識は、
結局のところ、私たちをアーリマン的な無にさらしてしまうことになり、
みずからの空虚にすること以外には何もなしえない。
また自己意識のなかに降りていこうとすると
今度はルシファー的な激しい利己主義にならざるをえなくなる。
神秘主義的な方向性をもつ霊性において、無私を徹底しようとするのは、
この危険性を回避するためでもある。
それが徹底されないまま、宗教的な内的沈潜を行おうとするならば、
容易にさまざまなエゴの肥大を余儀なくされてしまうわけである。
世のさまざまな宗教やニューエイジ等で起こっている諸問題もここにあるよう に思われる。

この外へ向かうマクロコスモスへの道と
内へ向かうミクロコスモスへの道という
ふたつの方向性がそれぞれの危険性を回避したまま一致し、
「円環」となるために不可欠なのがキリスト衝動にほかならない。

キリスト衝動というと、どうしてもいわゆる「キリスト教」のイメージで
受け取ってしまうことになってしまいがちだけれど、
シュタイナーの示唆しているそれは、
こうした外への道と内への道を一致させるという
現代の人間にとってもっとも重要な課題に取り組むためには
不可欠の衝動であるということはどうしても理解しておく必要がある。

yucca wrote(#12294):
池田晶子さんの言葉、「考えている私は無私である」、
「四季の宇宙的イマジネーション」に「無私の自己意識」という言葉がありましたが、
まさに無私の自己意識が自然認識と結びつくのが現代の人間の理想なのでしょうね。

yuccaのいうように、「無私の自己意識が自然認識と結びつく」ということ。
その認識の「円環」を閉じるための鍵がまさに「キリスト衝動」であるという ことができる。

ぼくの知る限りにおいて、シュタイナーの精神科学的な認識以外に
こうした自然認識と自己意識を結びつけることのできる大いなる道を示唆して いるものはない。
心の教え的な自己意識の方向だけとか、
外に向かう自然認識の方向だけとかいうことに偏った仕方での
シュタイナー理解になっているために、
シュタイナーがもっとも重要視しているといえる「キリスト衝動」を
理解できなくなっているのではないかと思われる。
「キリスト衝動」を敬遠したり誤解したりしたシュタイナー理解は
そういう意味でいえば、決して「円環」を閉じる方向にはいかないのではない だろうか。

もちろん、その「円環」を閉じるための「キリスト衝動」を受けるということは
外に向かっても内に向かっても「魂の試練」を受けるということでもある。

「いつか、哲学的な論理の言葉を超え、神話の言葉で「普遍と個別」「永遠と一瞬」を
書きたいと話していた」という池田晶子だが、
その「神話の言葉」ということで思い出すのは
シェリングの自然哲学、同一哲学、積極哲学、啓示の哲学への方向性である。
シェリングは、ぼくのもっとも好きな哲学者のひとりであるが、
最近になってようやくシェリングの向かっていた哲学の方向性のことが
腑に落ちるようになってきている。

シェリングがめざそうとしていたのもおそらくその「円環」なのだろう。
そしてそのためには、大いなるポエジーを必要とした。
池田晶子は、ある意味では外に向かう自然認識の部分が欠落してはいたが、
方向性としては、同様に、「円環」を閉じるための「神話の言葉」に向かって いたのだろう。
もちろん、ノヴァーリスの営為も、そのままその「円環」にむかうプロセスを目指した
ポエジーそのものであるということができる。