シュタイナーノート133

思考の受動性と能動性


2007.2.21

   今日の人間は、思考とは現象やそれが生じる際の首尾一貫性ーあるいはその
  欠如ーを単に受動的に書き留めるだけのものであると考えています。人は単に
  受動的に思考を現象から生じさせ、それがその魂を占めるままにさせるのです。
  これに対して、私の「自由の哲学」では、いかに思考における能動的な要素が
  重視されるか、いかにして意志がそこに入ってくるか、私が純粋な思考と呼ぶ
  ところのものを行使する中で、いかにしてその人自身の内的な活動への気づき
  が可能になるか、ということが強調されます。これとの関連で、私は、すべて
  の真の道徳衝動の起源はこの純粋な思考の中にある、ということを指摘しまし
  た。私は、いかにして意志が、そうでなければ受動的な思考の領域へと割り込
  んできてそれを目覚めるようにと掻き立て、そして、思考する人の内面を活動
  的にするか、ということを示そうとしたのです。
  (…)
   本質的なことは、他の哲学的な書物に向かうような心的な態度をもって「自
  由の哲学」のような本を読む習慣を変える、ということなのです。それを読む
  ときには、そのことによって全く異なった考え方、意志の仕方、ものの見方へ
  ともたらされるのだ、という事実に注意が払われなければなりません。もし、
  そのことがなされるならば、そのようなアプローチは人の意識を地上的なもの
  から別の世界へと引き上げ、精神的な探求の結果について確信をもって語るこ
  とを可能にするような一種の内的な確かさがそこから引き出される、というこ
  とが分かるでしょう。「自由の哲学」をそれが読まれるべき仕方で読む人は、
  その人が初心者として自分で到達した状態を越えて行った探求者が見出したこ
  とがらを内的な確信と自信をもって語るようになります。しかし、「自由の哲
  学」が正しい仕方で読まれるならば、それはそれを受け入れる人を私がこれか
  らお話しするような種類の初心者にします。そのような初心者は、ちょうど化
  学の分野に通じている人がその分野における探求について語るのと全く同じよ
  うにして、より進んだ探求において見出されたことがらについて、さらに詳細
  な報告をすることができます。彼はそれがなされるのを実際に見たわけではな
  いかも知れませんが、それは彼が学び、聞き、そして現実の一部として知って
  いるところのものから彼には周知のことなのです。人智学について議論すると
  き、いつでも決定的に重要なのは、単に一般的に受け入れられている世界像と
  は異なる世界像を写し出すということではなく、ある特定の魂的な態度を発達
  させるということです。
   問題は、私がお話ししてきたような異なる仕方では「自由の哲学」は読まれ
  てこなかった、ということです。それが問題であり、人智学協会の発展が人智
  学そのものの発展から遙かに脱落してしまわないためには、その点が強調され
  なければなりません。もし、それが脱落してしまえば、協会を通して人智学か
  ら伝達されるものは完全に誤解され、その唯一の果実は終わりのない争いであ
  った、という結果になることでしょう!
  (シュタイナー『人智学的共同体形成』第3講(佐々木義之さん訳)より)

人智学を学ぶということは、
まず思考の受動性から能動性への道を歩むことだ。
学ぶということとはそれそのものが自己教育であって、
「自由の哲学」は思考の能動性による
自己教育の書でもあるといえるかもしれない。

その能動性はじっとしていられないから活動するという能動性ではない。
それはむしろ内面において、波紋のない湖のような静かさでなければならないだろう。

その底には深い熱の源があるのだが、その熱は孤独においてこそ得られる。
孤独でしか得られない熱を取り違える人は、思考の受動性故に外的な熱を生み、
群れるという能動性を好むことになる。
そのとき、内面は活動的になることがない。
感情的になってそれを思考の活動だと思いこむことはあったとしても。

「自由の哲学」の「自由」は、
その源泉を他に求めないということにある。
道徳的衝動も、「そうすべき」「そういうもの」だからではなく、
思考の能動性と想像力によって自らが生み出すものなのだ。

たとえ権威がそこにあったとしても、
その権威の源泉にあるのも、その自由にほかならないはずである。
つまり、だれもが思考を能動的にする魂の態度をもち
それを発達させることにむかって開かれているということ。
そのことにおいて、だれもが「初心者」として立ち向かうということである。

従って、魂の態度において受動的な思考のもとにある人が、
人智学を学ぶということはありえないということができる。
それは、自己教育のできない人が学ぶことができないのと同様であり、
自分の井戸を掘らないで他者の井戸に寄生する態度や
両手にコップをもって水を求め砂漠を行くものにも似ている。
大事なのは、みずからの魂の能動性をもって井戸を掘り
そこから自由の名のもとに水をくみ出すことである。
その水こそが、自らをだけではなく、他者をも潤すことにもなる。
故にそこに愛も可能になる。

ぼくの理解する人智学は、このように、
思考の能動性という自由において魂の態度を変容させることを通じて
みずからの井戸からくみ出した水を活用しようとする活動のことにほかならない。
もっとも、ぼく自身は、みずからの井戸から水をくみ出そうとして
なかなかうまくいかないという情けない状態ではあるのだが、
それでも向かうべき方向性だけは過たないようでありたいと思っている。