シュタイナーノート132

嫌いでも理解、好きならもっと理解


2006.12.29

   世の中の事物や出来事のどれに対しても、それらが自分に与える快と苦の
  観点からしか評価できぬ者も、自分自身に対するこのような過大評価にとら
  われている、といえる。なぜなら自分の快楽、自分の苦悩は事物に関する経
  験なのではなく、自分自身に関する経験に過ぎないからである。
   或る人に好意を感じるのは、彼に対する私の関係に過ぎない。判断し、態
  度を決めるに際して、もっぱら快と共感だけに従う私は、自分の性格を全面
  に押し出している。私は世間にこの自分の性格を押しつけている。私は今の
  ままの自分で世間に干渉しようとしているが、世間を偏見なしに受け容れよ
  うとはせず、またその中に働くさまざまな力を十分に活かそうともしていな
  い。換言すれば、私は、自分の性格に適うものだけに対して寛容であるにす
  ぎず、それ以外のすべてに対して、私は反発しようとしている。
   感覚世界の中にとらわれている人間は、すべての非感覚的影響に反発する
  ものである。学ぼうとする人は、事物や人間のどんな些細な価値や意味をも
  肯定できるような性質を、自分の中に育て上げなければならない。共感と反
  感、快と不快は、まったく新しい役割を果たせるようにならなければならな
  い。これらを押し殺して、自分を無感動な人間にするのが良いというのでは
  ない。反対である。すぐには共感、反感から判断と行動を引き出そうとしな
  い能力を養えば養う程、人間はますます繊細な感受性を自分の中に育て上げ
  るであろう。
  (・・・)
   どんな快や苦にも、どんな共感や反感にも、自分中心の反応をしようとし
  なくなれば、外界の移ろいゆく印象からも自由になれる。或る事物に感じる
  快感は、たちまちその事物に依存し、その事物の中に自分を見失う結果を生
  じさせる。印象の変化に従い、その都度快や苦に我を忘れる人間は、霊的認
  識の小道を歩むことができない。平静な心で快や苦を受け容れることが必要
  である。そうすれば、快や苦の中に自分を見失わずに、快や苦を理解しはじ
  める。私が快に没頭する瞬間に、その快は、私の人生を消耗する。大切なの
  は、快を私に与えてくれた事物を理解することであり、快感はそのために利
  用されるべきものに過ぎない。
  (シュタイナー『神智学』ちくま学芸文庫  P.199-201)

ノート131「何からでも学べる」に続いて、
「嫌いでも理解、好きならもっと理解」について。
15年ほどまえに自分なりの基本姿勢として表現したこの言葉は、
快、不快といった感情的、感覚的なものから自由になるためのものである。
あまり洗練された表現とはいえないけれど、基本的な趣旨の部分は、
「認識の小道」の章からの上記の引用にあるとおりだとあらためて思う。

感情的なものを中心的価値に置いている人にとって、
自分の感情を統御するという言い方は
「では冷たい人間になれというのか!」というふうに
とらえてしまう傾向があるのではないかと思うのだが、
実際にはその逆である。
自分の感情を統御しないまま、感情を表現、放出してしまうのは、
感情が豊かなのではなく、むしろ未熟なままであるといったほうがいい。
感情を豊かにし、成熟させることができるならば、
それらは、いわば我を忘れた勝手気ままなかたちでふるまうことをやめて
美しい宇宙秩序に自ずから則ったものになるはずである。

自分の感情を豊かに成熟させ感受性を豊かにすることは、
むしろあらゆることに感動できるようになるということである。
そして、それは快や共感を増大させるだけではなく、
不快や苦悩も増大させた感受を自分のものにするということになる。
つまり、それだけに感受の器を大きくしておかなければ、
それらに対応できなくなってしまう。
小さな器にたくさんのものを盛ることはできないのである。

自分の感受の器を拡げていくためには、
まず、それまでできるだけ自分から遠ざけようとしていた
不快や苦悩を直視できるようにする必要がある。
快や共感に向き合うのはたやすいことだし、
容易にそのなかで我を忘れてしまうことになってしまう。
しかし不快や苦悩に対面するのは容易なことではない。
だからこそ、それらの不快や苦悩を、まるで自分のことではないかのように、
しっかりと見据えて、できるだけ冷静に「理解」しようとすることは大変な進 歩になる。
しかもそこには、自分の魂のさまざまな課題が満載されているために、
自分の陥りやすいさまざまな錯誤を見出すためには格好の場所でもある。

さらに、嫌いなものを理解しようとすることだけではなく、
それまでにほとんど没頭するしかなかった好きなものへの対し方も
それとあわせて検討しておく必要がある。
不快と反感、苦悩の世界は、自分から遠ざけることで見えなくされるが、
快と共感の世界はむしろそのなかで自分を見失わせる危険性に満ちている。
この快と共感の世界に対しても、まるで自分のことではないかのような
平静な視線を向ける態度は、ある意味、嫌いなものに対する以上に必要なこと かもしれないのである。
「自分のことは自分がいちばんよく知っている」というのが
ほとんど強がりからくる、自分勝手な思いこみでしかないように。