シュタイナーノート131

何からでも学べる


2006.12.29

   学ぶ者は、いかなる瞬間も、異質の世界を容れることのできる、まったく
  空の容器になることができなければならない。われわれ自身に発する判断や
  批判のすべてが沈黙する瞬間だけが、認識の瞬間なのである。たとえば、或
  る人と出会ったとき、その人よりわれわれの方がもっと賢明であるかどうか、
  ということは、全然重要なことではない。極く無分別な幼児といえども、偉
  大な賢者に対して開示すべき何かをもっている。そしてこの賢者が、どんな
  に彼らしい賢明さで、幼児を批判したとしても、そう批判することで、その
  賢明さは曇りガラスとなって、幼児が彼に開示しようとする事柄の前に立ち
  塞がる。
  (シュタイナー『神智学』ちくま学芸文庫  P.197-198)

2006年の終わりを締めくくるに際して、
何を心にしっかり刻んでおこうかと思った際に思い出したのは、
シュタイナーの主著のひとつ『神智学』のなかの「認識の小道」という章だった。
ここに書かれてある文章は、霊学的認識を得ようとするときに必要な
基本的態度がきわめて簡潔に書かれてあって、
いわば初心に還ろうとするときには何度も読み返すにふさわしい内容となっている。
そこで、そのなかからきわめて基本的なところをとりあげてみることにしたいと思う。
これまでにも何度も書いたことのある内容なので、
金太郎飴のようになってしまうところも多いが、
こういう年末年始の時期には、その金太郎飴を繰り返してみることも
それなりに必要なことだと思うのである。

さて、1991年にネットを始めて、シュタイナーを主なテーマとする
この「神秘学遊戯団」メーリングリストの前身を開いたときに、
自分なりの基本的な姿勢として掲げたのは次の2点だった。

・何からでも学べる
・嫌いでも理解、好きならもっと理解

後者については、追って次のノートででもふれることにするが、
前者について説明するならば、まさに上記引用の通りである。
とくにこの引用箇所をその際に意識したわけではなかったけれど、
どこかでこの内容のことが繰り返しぼくのなかでリフレインされていたのだろう。

人はどうしても、「教える人」ー「教えられる人」を固定的にみて、
だれかに教えてもらろうとする態度と誰かを教えようとする態度の両極を
極端なかたちで行き来するところがあるように見えることが多い。

あらゆる教育は「自己教育」であることがその根底にあるように、
教えられるときにも、先生に教えてもらうというよりも、
自己教育できるように自己啓発を行うきっかけにするということが主でなければ
学ぶことには決してならないだろうし、
人を教えるときににも、みずからの自己教育を通じて、
相手の自己教育への態度を喚起することがなければ、
教えることと学ぶことがどちらの立場にとっても、
切り離されてしまうことになるだろう。

自己教育による学びという姿勢を忘れないためには、
「何からでも学べる」ということを常に基本に置いておく必要がある。
まさに「何からでも」であって、
その「何」のなかにはもちろん、「人」もふくまれている。
そしてその「人」のなかには、子どももふくまれれば、
自分とまったく考え方の違う人や自分を害する人までがふくまれている。

自分を害そうとする人に「どうぞどうぞ、害してください」と
自虐的に対する必要なないだろうが、
少なくとも「この人はなぜこういう態度をとるのだろう」という
問いを持つことはできるだろうし、できれば
自分をまるで他人であるかのようにみなして、
その一部始終を観察してみることは大変有効な学びになるだろう。

「何からでも学べる」ということは、
世界のどんなことも自分と無関係ではありえないということでもある。
「そんなこと関心がないし、関係ないね」という態度をとることはできない。
もちろん、なにかを知るということにおいても
機会も能力も時間も、またその他のさまざまな要因も
一人の人には限られた範囲のものしか与えられてはないだろうが、
少なくとも自分に関係してきたものには
自分にとってなんらかの「意味」があって、
そこから学ぶ必要があるということを忘れてはならないということだ。

だから、「すでにそんなことは知っている」とか
「そんなことはわかりきったことだ」とかいう態度や
「教えてあげよう」というような態度は
せっかくの認識のチャンスを逃してしまうどころか、
知らずに自分で自分の可能性を引きずりおろしてしまうことになる。

しかし、実際には「何からでも学ぶ」ということは大変むずかしいことで、
気がつけば自分で自分を閉ざしてしまうことのなんと多いことか。
そのことを再認識しながら、
「何からでも学べる」、その「学べる」という可能性を生かすために
何ができるのかを繰り返し自分に問い返してみたいと思う。