シュタイナーノート130

自己完成への多角的な視点


2006.9.28

 真理が一面的になるのは、「汝自身を知る」ために、ただ自分の一 面だけを見
ようとするときです。反対側からも自分を見なければいけないので す。そうすれ
ば、自己認識が絶えざる自己完成への要求となって現われます。
(・・・)
 自我がどんな仕方で自分に向き合うのかを、私たちは境域の守護霊 の傍らを通
る場合のこととして見てきました。それは人間が自我の外で、いわば その自我を
振り返りながら、その自我を客観的に眼の前にする瞬間のことです。 人間が自分
の自我を一度、二度、三度と、繰り返して求めるとき、そのつど自我 は異なるイ
メージとなって現われるのです。その際、私たちが物質界での約束に こだわると
き、私たちは非常に混乱してしまうのです。
 霊界の中にいる私が、自分に再会したとき、その私はまったく別の 私になって
います。三度目に出会ったときの私も、更に別の私になっています。 このような
ことが、よく生じるのです。私たちが先に述べた行法によって、霊視 世界に参入
し、自分をイメージとして見るとき、自分を12の異なったイメージ として見る
ことさえあるのです。
 一人の人の自我が12の異なるイメージとなって現われることもあ るのです。
というよりも、私たちが12の異なる観点から、肉体の外に立って、自分自身
を振り返って見るとき、そのとき初めて、私たちは自分自身を完全に知ったと
言えるのです。この自我の相は、太陽と十二宮との関係に似ています。太陽は
12の星座を通っていき、各星座において別の作用力を働かせます。春分の日
に一つの星座の中に現われた太陽は、翌年の春になるまでに十二宮を一巡しま
す。そして日中、さまざまな星宮から地球を照らします。そのように、人間の
自我もまた、霊界の異なる12の側面から輝きを発するのです。
 ですから霊界に参入するときには、一つの観点に立つことで満足してはなり
ません。修行は、そのためにも必要なのです。修行によって混乱を回避できな
ければなりません。そうできるためには、すでに物質界において、一つの観点
だけで人生を救済できるはずはない、と考えることができなければな りません。
(・・・)
 このように、世界のさまざまな立場に身を置き、どの立場にも正当性を認め
るようになることで、高次の世界に参入するために必要な、多角的な視点が獲
得できるのです。12の観点から自分の自我を見ようとする努力なら、いくら
してもしすぎることはありません。
(シュタイナー『マクロコスモスとミクロコスモス』 P.183/P.233-238
シュタイナーコレクション3「照応ずる宇宙」所収 筑摩書房)

シュタイナーは、ゲーテを語るときはゲーテの視点で、
ニーチェを語るときはニーチェの視点で、
ヘッケルを語るときはヘッケルの視点で語ったために、
さまざまなひとたちから誤解を受けることが多かったようである。

それはもちろん『ハムレット』に登場するポローニアスのような
人の言葉に迎合し追従する姿勢ではなく、
相手を理解するためには相手以上に相手になる必要があるということや
ある視点を通してはその視点で見えるもの、論じることのできることを語るという
基本的な姿勢からくるものである。

しかし多くの場合、人は立場、視点を固定的にとらえて、
それを複数持つということを節操のない不謹慎な姿勢であるととらえてしまう。
あるとき唯物論なテーマを唯物論で語ることと、
別の場所で、霊的なテーマを霊的な仕方で語ることが
矛盾していることのように見えてしまうのである。
良心的で知的な現代人は、自分が立脚している立場、視点の外に関しては、
たとえば「科学では説明できない」というような仕方で、
「語ることができない」ということにしておくことが多いようだが、
シュタイナーが神秘学において必要であるという視点においては、
そういう良心や知性は、単に自らに限定を設けることで不自由になっている、
つまり自縄自縛しているイメージでとらえることができるかもしれない。

私が私であるということは、
私が常に狭い檻に閉じこもって、
同じのぞき穴からしか世界を見てはならない、
ということではないのはもちろんのことであるが、
往々にしてそういうことが常識のようにされてしまうことがある。

西田幾多郎は、絶対矛盾的自己同一を説いたが、
ある意味、自我というのは、ある視点からは矛盾でしかないものが
矛盾そのままのかたちで同一であることを可能にする。
それは、低次の感情が怒りは怒りのままで暴走し、
悲しみは悲しみのままに、喜びは喜びのままで、
同居できない状態とは異なっている。

シュタイナーは、自我を12の側面から 十二宮との関係で次のようにとらえている。
「汝自身を知る」ためには、その12の側面を自らに認めなければならない。

唯物論(巨蟹宮)・感覚論(獅子宮)・現象論(処女宮)・現実論(天秤宮)
力動論(天蝎宮)・単子論(人馬宮)・唯神論(磨羯宮)・唯霊論(宝瓶宮)
唯心論(双魚宮)・理想論(白羊宮)・合理論(金牛宮)・数理論(双子宮)

別の表現をすれば、12面体のようなイメージでもあるだろうか。
それぞれの面はそれぞれに正当なものであって、
自我はそのことを可能にする太陽のような位置づけを持っているといえる。
自らを12面体のミラーボールのようにとらえ
それが宇宙のなかで回転しながら輝いているところを想像してみる。
それを矛盾と見ることもできれば、絶対矛盾的自己同一としてとらえることもできる。
要は、「自己完成」に近づくために何が求められるのかということだろう。

上記の12の表現はわかりにくいところがあるので、単純化していうとすれば、
自分の今とっている視点のベクトルの正当性だけではなく
まったく逆のベクトルをもった視点の正当性をも
自分のなかに認めなければならないということである。
誤謬が誤謬であることに目をふさいではならないが、
矛盾して見えるものが必ずしも誤謬であるということではない。
あるものを見るときに、今自分がのぞいているのぞき穴だけからだけではなく、
別ののぞき穴からも見ることができるということを
検討できなければならないということである。