シュタイナーノート119

諦念


2005.11.9.Wed.

 

一般に、私たちは、行いの程度は意志衝動の強さにかかっている、と 考えがちです。
けれども、もし、私たちが私たちの意志を強化すれば、私たちは世界 の中で何か重要
なことを達成するだろう、と言うならば、それはある程度正しいに過 ぎません。ある
地点を越えれば、もはやそうではないのです。驚いたことに、人間が 遂行し得るある
一定の行い、特に、精神的な世界に関連した行いは、私たちの意志衝 動の強化に依存
していないのです。もちろん、私たちが住んでいる物理的な世界にお いては、行いの
程度は確かに意志衝動の強化に依存しています。つまり、より多くの ことを達成しよ
うとすれば、より多くの努力が必要となります。けれども、精神的な 世界においては
そうではなく、むしろ、その反対なのです。精神的な世界において最 も偉大な行いを
達成し、最も偉大な結果をもたらすためには、前向きな意志衝動の強 化が必要なので
はなく、むしろ、ある種の身を引くこと、諦めが必要なのです。私た ちは、最も些 細
な純粋に精神的なことがらに関しても、この仮定に則って前進するこ とができます。
私たちは、私たちの切なる望みを働かせたり、それに没頭したりする ことによってで
はなく、私たちの意志を抑え、望みを抑制し、それらを満足させるこ とを諦めること
によって、一定の精神的な成果を達成するのです。
ある人が、内的、精神的な方法を通して、世界の中で何かを達成しよ うとしている、
と仮定してみましょう。その人は、まず自分の意志や望みを抑制する ことを学ばなけ
ればなりません。そして、物理的な世界の中では、よく食べ、栄養が 行き届き、それ
によってよりエネルギッシュになると、より強くなるのに対して、精 神的な世界 の中
で何か意義のあることを達成できるのは―これは記述であって、アド バイスではあり
ません―、断食を行い、意志や望みを抑制するための、あるいは諦め るための何かを
行うときなのです。最も偉大で精神的な努力に向けた準備には必ず意 志、望み、そし
て意志衝動を捨てることが含まれています。私たちは、意志すること が少なければ少
ないほど、人生が私たちの上に降りかかるのに任せる、あれこれのこ とを望むのでは
なく、むしろカルマが私たちの前にそれを投げかけるままにものごと を受け取る、と
ますます言うことができるようになります。つまり、私たちは、カル マとその結果を
受け入れることができればできるほど、つまり、私たちが人生におい て、そうでなけ
れば達成したいと思ったはずのあらゆることを諦め、静かに振る舞え ば振る舞うほど、
ますます強くなるのです。
(シュタイナー『真相から見た宇宙の進化』第3講
「太陽期における地球の内的側面と月期への移行」より)
 
「諦」というのは、諦めるとも読むが、
「中諦」などの表現にもあるように「真実」という意味でも使われる。
ぼくは半ばおもしろがって、わりと小さい頃から、
悟りっていうのは、諦めることなんだなあと勝手に、
半ば冗談、半ば本気で思っていたところがある。
生きることに消極的なほうなので、
「諦」に自分の消極性を投影したかったのだろう。
 
しかし、おそらく仏教での「諦念」というのは、
シュタイナーがこの講義で述べているような意味をもっているがゆえに
それが「真実」という意味でも使われるのかもしれない。
(言葉の語源云々というのは未確認だけれど)
 
もちろん、「これは記述であって、アドバイスではありせん」と
シュタイナーもことわっているように、
禁欲のススメというようなものではない。
多くの「禁欲」は、何かを達成しようとする禁欲であって、
「断念」「諦念」ということとは逆のものでしかない。
 
そういう意味で、まさに唯物論的な意味でも
意志を最大限に発揮させるスポーツ的なありかたは
もっともそういう「断念」「諦念」からは遠いものであるということができる。
 
しかしこれは、なかなか理解しがたいことなのかもしれないが、
たしかに、ある意味で、自分がいまこうしていること、
そしてさまざまにふりかかってくるものを
静かに受け止めることができるということは
もっとも深い霊的な成果と結びつくことができるところがあるのだろう。
 
もっとも卑近にいえば、
できることを誇示しない、
欲しているものに対して静かな態度をとる
みずからの意志衝動に対して静かな目線を向ける、
・・・こうしたことを挙げていくと、
思いつくのは、やはり「中」なる道を歩むという意味での
「八正道」ということなのだろう。
やはり、仏教での「諦」というのは、
真理であり諦めであるということがいえそうだ。
 

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