シュタイナーノート118

反対者という可能性


2005.11.9.Wed.

 

神々は、自由な存在が創造されるためには、敵対者たちが全宇宙の中で彼らに
反抗し、それによって、彼らが、時間に左右されるあらゆるものの中で、抵抗
に遭遇する可能性が与えられなければならない、ということに気づいていたの
です。彼らは、すべてを支配する者が彼ら自身だけであったとしたら、そのよ
うな反対を見いだすことは決してできないだろ う、ということを知っていまし
た。もし、神々がすべての犠牲を受け入れていたとした ら、ものごとは彼らに
とって非常に容易なものとなったはずだ―何故なら、そのときには、すべての
進化は彼らの思い通りになっていたはずだからですが―ということを彼らは認
めざるを得ないだろう、と私たちは想像することができます。けれども、彼ら
はそ うしないことに決めました。彼らは彼らから自由な存在たち、彼らに反抗
することができる存在たちを望んだのです。そのため、神々は、犠牲のすべて
を受け取ることはせず、それによって、存在たちが、神々自身の諦め を通して、
そして、その他の存在たち自身がその犠牲を受け取るという事実を通して、彼
らの反対者になるように定めたのです。
ですから、お分かりのように、悪の起源はいわゆる悪の存在たちの中にではな
く、いわゆる善なる存在たちの中に、つまり、その拒絶によって、世界の中に
悪をもたらすことができる存在たちを通して悪が生じる可能性を初めて与えた
存在たちの中に探さなければなりません。
(シュタイナー『真相から見た宇宙の進化』第3講
 「太陽期における地球の内的側面と月期への移行」より)
 
なぜ世界に「悪」が存在するのだろうか。
その問いは多くの宗教者を限りなく困惑させる。
神が完全であるならば、なぜ「悪」が存在するのだろうかという困惑である。
 
しかし神は完全であるがゆえに、「悪」を必要としたということができる。
「一」は「一」のままであったならば、完全なる「一」ではありえない。
「一」は「一でないもの」があることによってこそ、
常に完全でありかつまたそれがさらに完全たらんとすることができる。
 
「二元」はそれゆえに必要とされる。
「一」がすべてをその「一」の内においてなそうとしたならば
その「一」が展開する可能性はない。
しかしその「一でないもの」の可能性をあえて導入することによって
「一」は展開していくことが可能になる。
 
ゆえに、悪の起源は限りない善のなかにこそ求めなければならない。
しかし、善はその悪を「肯定」しているわけではない。
悪は高次の善になるためのステップボードであるがゆえに、
それ自身が善によって変容させられなければならない。
 
そのことを思うとき、「最後の晩餐」において、
「私とともにその手を皿に浸した者が私を裏切る」
とキリストに告げられたユダの深い絶望はいかほどだっただろうか。
しかしキリストのドラマは、その裏切り故に展開することになる。
その極限の矛盾ゆえに展開する世界!
 
私たちの日常において展開するさまざまも、程度の差はあれ、
そうした矛盾故に可能性を得るものが多いのではないだろうか。
それはある意味で、自らが自らに仕掛けた罠のようなものかもしれない。
自らが「反対者」をつくりだして
自分でないものによって自らを展開させていく。
そのことで自らも変容していく可能性を得、
また「反対者」そのものも変容していく。
 
極論を言えば、仏教でいう「苦」そのものも
私たちにとっては否応なく立ちふさがる「反対者」としてとらることができる。
しかしその「反対者」ゆえに私たちは「変容」の可能性を得ることができる。
そして、「復活」の可能性を得ることになる。
 
 

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