シュタイナーノート117

あらゆる知識をまとめようとすること


2005.10.8.Sat.

 

    今日では、地質学者は植物・動物・人間について何も知りません。人類学者は
   動物・植物・地球について何も知りません。自分の研究している事物がどのよう
   に関連しているか、だれも知らないのです。仕事が専門化したように、知識にお
   いても専門化が行なわれています。それは非常に有害なことです。単なる地質学
   者、単なる植物学者などがいると、身の毛がよだちます。知識すべてが粉々に分
   散し、まともなものが何もできあがりません。人間の安楽さゆえに、こうなって
   いるのです。
    人々は今日、「すべてを知っている人間にはなれない」と、言います。あらゆ
   る知識をまとめようとしないなら、「そもそも、有益な知識を諦めねば ならない」
   と言わなくてはなりません。
    私たちはすでに、ものごとが根本的に恐るべき状態に到った時代に生きていま
   す。時計を研究する者が、単に金属にヤスリをかけることを学ぼうとするような
   ものです。ついには、一人が金属にヤスリをかけることができ、別の人が金属の
   溶接について知っている、というふうになるにちがいありません。ついで、金属
   の組み合わせ方を知っている者がやってきます。しかし、その人は個々の金属を
   どのように加工するのか知りません。
    医学においては、大地の知識を含めて、あらゆる知識を結集できないと、そも
   そも何も達成されません。幹のなかには大地から、つまり地質学の対象となるも
   のから上方に運ばれて樹液になるものが生きているからです。それは、そこで死
   滅します。
    気象学、空気のことも知らねばなりません。周囲から、ふたたび生命を呼び出
   すものが葉に運んでいかれるからです。形成層の構築を理解しようとするなら、
   天文学も知らねばなりません。植物を食べるとき、形成層とともに人間のなかに
   何が入ってくるのか、知らねばなりません。乳汁が脳へと変化します。痛んだ形
   成層を食べると、大人になって、脳が駄目になります。このようにして、地中に
   あるものから病気が発生します。
  (シュタイナー「自然界の不思議(二)」
   『シュタイナーの美しい生活』西川隆範訳/風濤社 所収/P198-199)
 
知識が専門化していることの問題性は
専門化することで成り立っているところではでてきようがない。
 
それはまるで、自分の行動の根拠を
膨大な聖典のなかから探し出してくるような作業に似ている。
「だから髭を剃ってはいけないのだ」とユダヤのラビは命じる。
 
そのように科学・学問には膨大な注釈が永遠に付され、
それを追いかけるだけで人生は手一杯になる。
目玉が顕微鏡のようになって
顕微鏡をのぞくところ以外のものが見えなくなってしまう。
 
願わくは、専門化という井戸を深く掘り下げることで
ある種の全体性の宇宙が開示されてくればいいのだが、
現代のようなありようではそれは不可能だといえるだろう。
 
だから、シュタイナーがたとえば
「植物は地球に縛られた蝶であり、
蝶は宇宙が解き放つ植物の姿である」
というようなポエジーにみちた科学は成立しえない。
 
現代では、「今日では、地質学者は植物・動物・人間について何も知りません。
人類学者は動物・植物・地球について何も知りません。」
というどころの騒ぎではなくなっている。
 
人間はどんどん分断されていき、
自分をその分断されたなかに押し込めるので忙しい。
そしてそれ以外のことは何も知らない。
それを知るのがまるで罪悪でもあるかのようだ。
 
「あらゆる知識をまとめようとすること」が急務である。
それはなにも、顕微鏡をのぞいたものを集めるというのではない。
全体を見る視点を持つ努力をするということだ。
もちろんその全体は部分をスポイルするようなものではなく、
マクロコスモスとミクロコスモスが照応するような意味での全体だ。
 
それを「自分にできるはずはない」などと大げさにとらえる必要はない。
関心を持たないということが問題なのだ。
花は好きだけど、石ころには興味がない、とか
犬や猫は好きだけど、虫は苦手だとか、
小説は好きだけど哲学は苦手だとかいうことは、
自分という存在を切れ切れにしているのだということを知る必要がある。
もちろん好き嫌いを否定する必要はないのだけれど、
嫌いだということと関心がないということとは別のことなのだ。
嫌いだからこそ関心を持つ必要があることはたくさんある。
ナショナリズムが嫌いでも、嫌いだからこそナショナリズムを研究できるように。
 
できるだけ多くのことに関心をもつこと。
それは自分が他者にもなりえるということでもある。
関心をせばめておいて他者を思いやるということはできない。
もしおもいやれるとしても、それは結局のところ押し売りにすぎなくなる。
 

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