この連続講義は、日々の仕事に追われている私たちの生活目標と人類の 至高の課題との間に橋を架けることを目指しています。 言い換えれば、日常生活から神秘学上の諸問題へ通じる道のひとつを切 り開こうというのです。神秘学は、私たちがそれに没頭すればするほど、 私たちの感性と意志の中に流れ込んで、多難な人生に打ち負かされずにす む力になってくれます。現代という時代を生きる私たちにとって、高次の 世界から働きかけてくる霊性を認識するのは、決して不必要なことではな いのです。もしも神秘学の思想が今人類の手もとに届かなかったなら、そ れほど遠くない時までに、人類社会は平和を失い、内的な混乱の中で生き ていかざるをえなくなるでしょう。 (シュタイナー『感覚の世界から霊の世界へ/第一講』 筑摩書房 シュタイナーコレクション2 より/P13-14) サイモン&ガーファンクルに『明日に架ける橋』という名曲がある。 荒れ狂う川の流れの上に架かる橋のように。 この歌詞を読むとまるで、神秘学を語っているように感じる。 もし神秘学を人類が確実に手にしなかったとしたら、 人類はますます深い迷路に迷い込み、 ダンテの深い森の中で、打ち負かされてしまいかねない。 さまざまな不条理が私たちを襲う。 地震、津波、台風、戦争、テロ。 それよりもまず私たちのいちばん身近にある争い、諍い、無理解。 そして、四苦八苦の波はまさにTroubled Waterとなって襲いかかってくる。 そこに橋を架けてくれるものは、なかなか見つからない。 気休めはあるが、それはほとんど気晴らしの領域を出ない。 ときに狂信的な方法で、死をも賭してTroubled Waterに向かうシーンも目にするが、 そういう方法はおそらく自己満足以外の結果は導けないだろう。 そして多くの場合、それらははた迷惑この上ない。 神秘学もある意味で死を賭したともいえるが、 それは生と死をともに深く認識するということを通じてそれを行う。 そこには、狂乱や信仰ではない深い平安への可能性がある。 しかもそれは日常そのものとしっかりと結びついている。 もちろん気をつけなければならないのは 神秘学はノウハウ集でもなければ解答集でもないところである。 その認識の道は、ある意味で「自分がいかに知らないか」を知ることから始まり、 「驚きからはじまる探求」の道でもあって、 その道そのものが喜びとなるということである。 それで自分が偉くなるわけでもなければ、勝ち誇る喜びというのでもなく、 今あるさまざまな苦しみからの逃げ道を教えてくれたりもしないが、 今ここにいる生のただなかにありながら、 それが永遠の織物であるという深い安堵感をもたらしてくれる。 まさにTroubled Waterに架かる橋だといえるのではないかと感じている。 |