シュタイナーノート 99

自我感覚と他者


2004.10.5

	 外界との一層密接な関係は、私たち自身がまさに他者と全く一体になって
	感じられるので他者が私たち自身でもあると感じられるという、そういう感
	覚によって可能となります。これが、自我感覚なのです。この自我感覚によ
	って、私たちは他者から来る思考を通して他者の自我を感知することができ
	るのです。
	 ここで私たちは、この自我感覚、つまり他者の自我を知覚する自我感覚と、
	自分の自我を知覚し実感することとの違いを、はっきり区別しなければなり
	ません。この違いとは、ある時には自分の自我に気づき他の瞬間には他者の
	自我に気づくというような事実の中にあるのではありません。もっと実際的
	な、起源上の違いがあるのです。他者の自我を知る能力の萌芽は、他の感覚
	の萌芽と共に土星紀の私たちの中にすでに備わっていました。それに対し、
	私たち自身の中の自我は地球紀になるまで獲得されませんでした。
	(…)
	 私たちは、色を知覚するのとちょうど同じように、直接、他の人間の自我
	を知覚するのです。私たちが単に肉体上の知覚だけから自我の存在を推察す
	ると考えることは、全くもって愚の骨頂と言わなければなりません。何故な
	ら、そういう考えは、人間の奥深くに存在する他者の自我を実感する感覚の
	存在を無視しているからです。ちょうど光と暗さと色が眼で知覚されるよう
	に、他の人間の自我も自我感覚によって知覚されるのです。これが、他者と
	自我との感覚による関係なのです。
	(シュタイナー『人間の十二感覚と七つの生命作用について』
	 1916.8.12 ドルナハ/
	『十二巻各論』(松信由利子・佐々木和子訳)所収 P19-22)
 
「他者論」についてはさまざまに論じられている。
なぜ私たちは「他者」とともに「他者」によって存在するのか。
そもそもなぜ「他者」と出会うことができるのだろうか。
それはいわばアレントのいう「公共性」の問題とも密接に関わってくる。
 
実際、「他者」について感じ、考えることは私たちをしばしば混乱させる。
私が私である、ようには、他者は他者でないからだ。
 
シュタイナーは、自我感覚とは、まるで光や色を知覚するように
他者の自我を知覚する感覚のことだという。
そして私たちのいわゆる「自我」が地球紀になってはじめて獲得されたのに対して
この自我感覚は土星紀のときにすでにあったのだという。
 
この示唆は、私たちの「他者」との出会いについて考えるときに
ちょっとした衝撃をもっているのではないだろうか。
他者の自我を知覚するという自我感覚。
そしてその後、地球紀になって獲得された「自我」。
 
かつて、私は私たちだった。
そういうありようのなかで他者の自我を知覚していた。
しかし今、私は私である。
 
ライプニッツに「モナド」というコンセプトがある。
「モナドには窓はない」ともいったりする。
地球において獲得された自我はモナドでもあるだろう。
私は私である。
自我が自らを定立する。
 
ところで、私は他者を知覚する。
他者の自我を知覚する。
私は私という存在をも知覚する。
そして、私は私である。
 
おそらくそこでなんらかの混乱が起こるのかもしれない。
ときに私は他者になったりもするからだし、
私が他者を頑なに拒否したりもするからだ。
人は容易に、みずからを空しくし
また他者を悪魔化してみずからを善とみなす。
 
私たちの自我はおそらくとても幼い。
そこでその寄る辺ない自我は
私たちのなかで安らおうとし
また自我を屹立させようとして競い立つ。
その両者は矛盾するようで実のところ同じものの両極であって
同時に働いていることも多いように見える。
 
シュタイナーの自我感覚についての示唆は
他者の自我を知覚することが長い歴史をもっていることを示しながら、
しかもそれが地球紀における私たち一人ひとりの自我とは
異なっていることを示している。
その示唆を、現代において論じられている他者論のなかに働かせてみること。
 
そこには、自我を育てていく重要な視点が見られるだろうし、
同時に、現代において屹立し競い争っている自我の戦争に対する
ひとつの洞察を見つけることもできるだろう。
自由であって、しかも友愛的であるという可能性。
私は私、でありながら、他者を私のなかで働かせることのできる可能性。
 

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