シュタイナーノート 93

「人は」


2003.11.2

        現代の文章の中には、なんとしばしばこの小さな言葉、「人」が出てくる
        ことでしょう。「人には踏み越えることのできない認識の限界がある」、
        「人はそんなことを知ることはできない」、などなど。
        (…)
        「人は」と言うときの「人」など、どこにも存在しません。認識の限界に
        ついて語る人は、自己認識という言葉さえも理解できていないのです。自
        分のことが分かっているなら、われわれが人間として、進化しうる存在で
        あり、今のわれわれは現時点での能力の範囲内で認識しているのだ、と自
        覚しているはずだからです。
         今述べたことは確かに現代の重要な問題点なのですが、もっと大きな問
        題点があるのです。実際、今のは単なる言い方の問題にすぎませんから、
        聞き流すことも可能です。神智学者はそれを聞き流して、そして「この著
        者が“人は”と書くときの人とは、著者自身のことらしい」、と思えれば
        いいのです。そう思えれば、書物を読んでも迷わずにすみます。そして著
        書が何を知っているのかが推測できます。ですからそれほど深刻ではない
        のです。
         けれども言い方に留まらず、そこから行動に出るとなると問題はもっと
        深刻になります。理論は決して危険ではなく、生活の中に生かされるとき
        初めて危険になるのです。当の人物が、「私には人が何を認識でき、何を
        認識できないか分かっている。人は自分を更に進化させる必要など、まっ
        たくない」、と言い始めると、深刻な問題が生じます。
         そういう言い方をする人は、自分で自分の進む道を閉ざしてしまうから
        です。実に多くの人が、今、自分で自分の進化を妨げています。
        (シュタイナー「マクロコスモスとミクロコスモス」
         『照応する宇宙』所収 筑摩書房/P180-182)
 
認識の限界を語るのは、一見謙虚であるように見えても、
実際のところ、むしろ認識を広げないことを宣言するような
傲慢さに通じてしまうことになる。
 
今認識できないという事実とこれからも認識できないということとは
まったく別のことであるにもかかわらず、両者を同一視してしまう。
 
今認識できていないということを隠蔽して
認識しているかのようにふるまうのは論外だが、
今認識できないからといって、
これからも認識できないということにはならないのだ。
「今私の準拠している認識の枠組みにおいては、それを認識できない」
ということはいえるが、
「それは絶対認識できないことである」ということはいえない。
 
『自由の哲学』で最初に提示されている問いかけのひとつにも
認識の限界について述べられるカント的な認識がある。
 
こうした問題がとても深刻になるのは、
上記の引用にもあるように、
それが「生活の中に生かされるとき」である。
 
たとえば、今自分にわからないようなむずかしそうな内容があるとする。
そしてそれを理解できるようになるためには、
少なくとも今の自分には10年以上の時間が求められるとする。
そのとき人は容易に「自分には絶対できない」というか、
「そんなことを理解する必要はない」とまで言ってしまいがちである。
「私に必要なことくらいちゃんとわかっている」というのである。
 
もちろんたしかにそうまでして理解する必要のないこともあるだろうが、
そうでは決してないことも確実にあるはずである。
そのときの「自分には絶対できない」とか「する必要はない」という態度は
極めて深刻なものをもたらしてしまう。
「人は自分を更に進化させる必要など、まったくない」と
いうことに等しい態度になるからである。
 
いろんな本をその著者のそうした姿勢ということから読んでみると、
またいろんな人の言動をそういう観点で見てみると、
謙虚さを装っていることはあるとしても、
「自分はすべてわかっている」か「認識の限界を肯定する」か
といったものに帰着するような認識である場合が多いのがわかる。
 
現代という時代の閉塞状況というのも、
おそらくはそこから来ていることがあまりにも多いのではないだろうか。
精神科学の必要性というのも
その観点からあらためてとらえなおしてみると、
シュタイナーの示唆していることの重要さがあらためて理解されるように思う。
 
 

 ■シュタイナー研究室に戻る

 ■神秘学遊戯団ホームページに戻る