シュタイナーノート 92

「世界」の外と内の境界認識とその突破


2003.10.25

         外へ眼向けるとき、外の世界には、まず感覚の対象が現われます。私たちは
        色や光を見、音を聴き、暑さ寒さ、匂い、味その他を感じます。さしあたりこ
        れが、人間を取り巻く世界なのですが、この環境世界には、一種の限界が設け
        られているので、直接的な知覚体験を通しては、この世界、眼の前に拡がるこ
        の色と光、音と匂いなどの世界の背後を窺い知ることができないのです。
        (…)
         境界はもう一つあります。その境界は、私たちが自分の内部に眼を向けると
        きに現われます。私たちの内部には、快と不快、喜びと悲しみ、情熱、衝動、
        欲望などの世界が、言い換えれば、魂の営みのすべてがあります。この魂の営
        みは、「私は嬉しい」とか、「悲しい」とか、「こうしたい」とかいう言葉で  
        表現されていますが、この魂の営みも、ちょうど外にある霊界を感覚知覚が覆
        い隠しているように、その背後にあるものを覆い隠しているのです。
        (…)
         それでは、もしも私たちの外と内にそのような二つの境界が設けられている
        としたら、少なくともそう推測できるなら、それらの限界を突き抜ける可能性
        はあるのでしょうか。知覚内容という外的な覆いを突き抜けることができるの
        でしょうか。私たちの内なる快苦、情熱などの背後の深みへと導くような何か
        があるのでしょうか。外界の奥深く、内界の奥深くへ踏み込むことはできるの
        でしょうか。
        (シュタイナー「マクロコスモスとミクロコスモス」第一講/P14-17
         『照応する宇宙』筑摩書房 所収)
 
神秘学的な観点を持つことができるためには、
その出発点となるいくつかの認識的な志向性が必要なのかもしれない。
 
今ここにいる「世界」に自分が閉じ込められているという感覚。
その感覚がまったくないとしたならば、
この「世界」のなかで自分は完結しまうことになり、
神秘学的な観点はまるで必要ないとみなされてしまう。
必要とされるのはせいぜい宗教的な信仰でしかないだろう。
それは神秘学的な観点とは対極にあるような、
唯物論的な世界観とセットで用意される信仰の世界。
 
『自由の哲学』の最初の問いかけのひとつである、
「認識に限界があるかどうか」というカント的な認識への異議申し立ても、
そうした神秘学的な観点の出発点にかかわる問題意識であるということができるだろう。
 
通常の知覚、五感で体験できるものだけが「世界」(外界)であるとするならば、
それ以外の「世界」(外界)はまさに存在しないということになる。
また、通常の魂で感じ取れるものだけが「世界」(内界)であるとするならば、
それ以外の「世界」(内界)は存在しないということになる。
さらにいえば、「内界」さえもが物質的な相互作用によって生み出されるとするならば
「内界」さえもが「外界」の一バリエーションにすぎなくなってしまうことになる。
 
そうした「世界」に生きている人は、
自分がその「世界」に閉じ込められていることに気づくことはなく、
その人にとってその「外」という発想はナンセンスでしかないだろう。
 
ハムレットのセリフに、胡桃のなかに閉じ込められても自分は無限の天地の主だ、
というものがあるが、胡桃のなかに閉じ込められているのに
自分がそのなかに閉じ込められているとさえ思えない者は
すでにかぎりなく優秀な奴隷ロボットに自足していることになるのだろう。
仏陀は四苦八苦ということをいい、その苦を超える道を示したが、
その「苦」を認識しないでいるということはそれに似ている。
 
神秘学的な認識を得ようとするならば、
自分が生きている通常の世界の外と内に
境界があるということにまずは気づく必要がある。
 
しかも、そのことで自分が今知覚し感じているものを無意味とするのではなく、
むしろその逆に、そのことそのものを深めていく
ということの必要性を認識する必要がある。
唯物論とは、物の真の姿を見ようとはせず
その物を限界付けて見ることであるように、
自分の生きている世界そのものを深く認識しないがゆえに、
自分がそこに閉じ込められているのだということが
わからなくなっているのだということなのである。
 
 

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