シュタイナーノート 88

贈与


2003.6.3.

        「決済・融資・贈与」は健全な国民経済に属する概念の「三位一体」です。
        贈与を<経済プロセス>に加えることに反感を持つ人がいます。しかし、
        どこかに贈与がないと、<経済プロセス>は先に進めないのです。子どもた
        ちに贈与することがなければ、子どもたちをどうすればいいのでしょう。わ
        たしたちは、子どもたちに絶えず贈与しています。<経済プロセス>を完全
        に考察すれば、そこには贈与が見出されるのです。
        (シュタイナー『シュタイナー経済学講座』筑摩書房 1998 P119-120)
        
         重要なのは、「経済活動への精神の介入によって発生する<事実>の前に、
        わたしたちが立っている」ということです。自由な精神生活をいとなむ者は、
        …過去に対しては純粋な消費者です。けれども自由な精神生活は、未来に対
        してはどうなのでしょうか。精神生活はある意味で、間接的ですが、非常に
        生産的なのです。自由な精神生活が、社会有機体のなかで本当に解放されて、
        その能力を十分に発展させることができれば、この自由な精神生活は、物質
        の生産に関わる多少とも不自由な精神生活に対して、実り多い影響を与える
        ことでしょう。(…)
        「物質的なプロセスに関与する人々だけに、世の中に存在する権利がある」
        と規定することによって、自由な精神生活に携わる者たちが撲滅されること
        があります。しかし、精神的自由人は、精神性をほかの人々に提供し、人々
        の思考を柔軟にして、人々がより良く物質的なプロセスに関与できるように
        するのです。
        (同上/P123)
 
シュタイナーの経済についての話はぼくにはとてもわかりにくかったりするけれど、
少なくとも、よく引合にさだれたりもするエンデの「お金」についての考え方とは
まったく異なっているということは注意が必要だという機がしている。
たとえば、この講義のなかでシュタイナーは、このように述べています。
 
        貨幣は、空から降ってくるのではありません。だれかから借りてくるのです。
        「価値をもった貨幣からは、利子を取り除くべきだ」などという信念を、わ
        たしは持っているわけではありません。「利子はある程度まで、経済活動に
        おいて必要である」と考えていることは、『社会問題の核心』からも。おわ
        かりのことと思います。(同上/P265)
 
シュタイナーの経済についての話のなかでとくに印象に残っているのは、
労働について賃金が支払われるというのは
いわば人身売買であるというところである。
売買されるのは、労働ではなく生産物であるということ。
しかし、生産物が売買されるということが
そのまま物質的なやりとりだけを経済プロセスととらえていたわけではなく、
もっとも重要なのは「自由な精神生活」なのである。
つまり、経済における「贈与」ということ。
 
経済における「贈与」ということに関しては、
興味深いことに、中沢新一が『愛と経済のロゴス』においてテーマ化している。
この場合は、シュタイナーのいうような「決済・融資・贈与」という三位一体ではなく、
「交換ー贈与ー純粋贈与」という三位一体であり、
それがキリスト教の三位一体「父ー子ー聖霊」の図式と
同じ構造をしているというのである。
 
         私たち人間のおこなう「全体としての経済」の活動をあらわすトポロジー
        の図式は、キリスト教が神の本質を表現するためにつくりあげ、発展させて
        きた「三位一体」の図式と、まったく同じ構造をしています。(…)
         さらにもっと興味深いことには、いまのような資本主義の段階にまで展開
        してきたこの「全体としての経済」が現実的に生み出している「価値の増殖」
        の出現の仕方は、キリスト教のとくにカソリックの教義で教えられている「聖
        霊」の力のあらわれ方と、そっくりなのです。
        (中沢新一『愛と経済のロゴス』講談社選書メチエ 2003.1.10発行/P172-173)
 
         漁夫王は、ペルスヴァルが騎士たるべき礼節のことなど無視して、なりふ
        りかまわず聖杯と槍の意義を自分に問いかけてくるものと期待して、彼を城
        に招き入れたのです。ところが、柄にもなくペルスヴァルがこのとき発揮し
        た「否定性」のために、問いは発せられず、停滞した自然の力の流動はおこ
        らないままに、王の病は悪化し、国土はますますの荒廃に陥ったと語られて
        います。
        (…)
         ペルスヴァルは適切な問いかけに失敗したことによって、国土に荒廃をも
        たらしましたが、現代の私たちは、自然に対して「挑発し」「あらわにあば
        きたてる」という強引な問いかけを続行してきたために、もはや自然は応答
        をするのをやめてしまったのではないでしょうか。現代人も、ペルスヴァル
        と同じように、適切な問いかけに完全に失敗しているのです。
        (同上/P196,P203)
 
自然が「じねん」というように「おのずからしからしむる」という形で、
人間との関わりをもつ方向ではなく、
自然を征服するような形で関わることで、自然は沈黙してしまうことになる。
 
経済プロセスにおける「贈与」の重要性、
つまりある意味では「自由な精神生活」と関連するところが捨象されてしまい、
「グローバリズム」の名の下に、力による征服的な在り方が地を覆うとき、
沈黙し応答をやめていた「自然」が解放されないまま
やがてはすべてが荒廃への道を歩むことになるのかもしれない。
 
面白いことに、「ほぼ日刊イトイ新聞」に
経済学者の岩井克人へのインタビューが連載されている。
http://www.1101.com/kaisha/index.html
http://www.1101.com/iwai/index.html
平凡社の編集者のインタビュー「会社はこれからどうなるのか?」に加え、
岩井克人×糸井重里対談篇「続・会社はこれからどうなるのか?」。
ここでたとえば「差異」ということについて言及されている。
そして「差異」を生み出すというのが経済活動の根本であって、
それはモノではなく人間がもっとも価値をもっているということだと述べられている。
 
        岩井 「新しい差異を、
           常に作っていかなければ、
           利潤は生まれない」という原理が
           同時に何を意味しているのかというと、
           「もはや機械ではなく、
           人間がもっとも価値をもつ社会である」
           ということです。
 
           利益を生み出すためには、
           違いを生み出さなければならない。
           それが、はっきりしたからです。
 
           「違い」っていうのは、どこかに
           ポロっと転がってるわけではなくて、
           人間が作りださなくちゃならないですよね。
           その違いを生み出す
           能力や知識をもっている人間が、
           いちばん価値を持つ存在になっているんです。
        (「ほぼ日刊イトイ新聞」岩井克人インタビュー 2003.4.23
         「会社はこれからどうなるのか?」第6回 差異だけが利潤を生む)
 
うまくは説明しにくいのだけれど、
けっきょくのところ、経済においても重要なのは
未来をつくるのは「自由な精神生活」であるということに行き着くように思える。
そういう意味では「利子をとってはならない」ということにこだわるのは
むしろその「贈与」の部分を捨象する在り方につながることになる。
もちろんどんどん利子をとったほうがいいというのではなく、
「経済プロセス」の中心が「贈与」にあり、
その「贈与」というのは、まさに「聖霊」の働きそのものでもあって、
それが「自由な精神活動」と深く関わっているということについて
考えてみる必要があるということである。
 
そもそも精神科学そのものが、「贈与」にほかならない。
「自由な精神」から生み出された「贈与」。
「社会問題の核心」にあるのも、どれだけ「自由な精神」が
社会プロセスから生み出され得るかということなのではないだろうか。
ともすれば、社会参加だとか、自立のための動労だとか、
はたまた利子をとらないようにするだとかいうような
「自由な精神」が転倒させられたような在り方が優先されてしまうことのほうが
「贈与」をスポイルしてしまう要因のように思えてならない。
「自由な精神」が転倒させられたとき、いかに経済的に豊かであろうと、
その「貧しさ」は人を蝕んでいくのではないだろうか。
 
 

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