アウグスティヌスは、キリストの出現によって、霊を求める魂に対する関わり 方が、それまでとは違うものになったと考えるのだ。かれにとって、キリスト であるイエススを通じて、外的な歴史世界に啓示されたことは、それまで秘教 家たちが、準備を経たのちに、密儀に求めていたことにほかならなかった。か れの重要な発言の一つは、次のようなものである。 「現在、キリスト教と呼ばれている宗教は、すでに古代人の間に存在してい たものであり、人類の歴史の始めから、既に見られたものであるが、キリスト が肉となって顕現したときから、すでに存在していた真の宗教が、キリスト教 という名を与えられることになったのである」(『再考録』1・13) こうした考え方をした場合、二つの道が可能であった。その一つは、人間の 魂が、魂の真の自己認識を可能にする力を、自らの内部で形成しうるものなら、 魂は、ひたすら歩みを進めることで、キリストおよびキリストに関する一切の ことを認識することもできると考える方向である。この道は、キリストの出現 により豊かにされた密儀的認識の道といってよい。もう一つの道は、アウグス ティヌスが実際に歩み、かれの後から歩む人間にとって、偉大な範例となった 道である。その道とは、自己の魂の力の開発を、ある一定の段階でうち切って、 キリストの顕現に関する考え方を、文書記録や口承から受け継ぐというもので ある。アウグスティヌスは、第一の道を、魂の傲りから生じるものであるとし て退け、第二の道を、正しい、謙譲の道とした。 (シュタイナー『神秘的事実としてのキリスト教と古代密儀』 石井良訳/人智学出版社183-184) シュタイナーの『自由の哲学』の最初に、 認識に限界を設けるカント的なあり方への異議申し立てがなされていたが、 アウグスティヌス的にいえば、これは「魂の傲りから生じるもの」であるらしい。 「権威」故にマニ教を棄てキリスト教を信仰することになったアウグスティヌスらしい。 この認識を深め続けようとする方向性と権威に従おうとする方向性というのは、 あらゆる側面において見られる典型的な二つの方向性であるということができる。 もちろん、前者はともすればエゴイスティックにもなりかねないのですが、 後者はある種の自己責任を放棄したやり方であるということができる。 いわゆる「宗教」というのは、多く後者の傾向をもっているといえるし、 「帰依」及び「信仰」の対象が異なった場合、紛争が起こりやすくなる。 その対象が「絶対」である場合、その対立は解消するのがむずかしいし、 そのいわば「プログラム」を解消することも非常に困難になる。 もちろん、シュタイナーの方向性は、「信仰」ではなく「認識」であり、 その道を歩むための基本的な示唆についても、 「いかにしてより高次の世界の認識を得るか」などにきちんと明示されている。 シュタイナーがこうしたことを公にするまでは、 秘儀的なことを公開することは禁じられていて、 その罪は死をもって贖われなければならないこともあったようだが、 現代という時代は、古代的なそうしたあり方とはすでに異なり、 個々の人間の「自由」(もちろん「責任」)の範囲がそれだけ広がり、 むしろ秘儀を隠すことでのマイナス面のほうが大きくなってきたのだといえる。 最近、ローマでキリスト教が公教になっていった時代のことを あれこれと調べていたりもするのだけれど、 なぜキリスト教があれほどに急速に広まっていったのか 理解に苦しむところがあるのだけれど、 それはもちろん「認識」的な方向ではなく、 ある種の、まさに「衝動」だったのだと思われる。 そして、古代的な秘儀が次第に廃れていく・・・。 『背教者ユリアヌス』もその時代の背理を生きていたのだろう。 |