彼は私が精神生活を思想の領域で無益に消耗しているために、人間的に冷た いのだ、と堅く信じていた。私が思考生活の営みによって冷淡になるどころか、 思考を通じてどれほど人間的な要素を生の内部に取り入れ、思考領域の中で霊 的把握に努めていたか、彼には理解できなかった。 純粋に人間的なものは、霊の領域に高められたからといって、失われること なく存在するし、思考の領域においても生を経験し得るということが、彼には わからなかった。彼は、霊の領域では単に考えるだけで、抽象性という冷たい 世界に入ると自己喪失に陥りかねない、というのだった。 こうして彼は私を「合理主義者」に仕立ててしまった。私はそこに霊を探求 する途上における、私に対する最大の誤解を見た。現実から遊離し、徒に抽象 に流れる思考は、私の好まざるところだった。私は思考がまさに抽象化せんと する段階まで、思考を感覚世界から導き出したいと思っていた。なぜなら思考 はまさにその段階で霊を把握するに違いないのだから。 (…) 実生活で体験したのと同じ軋轢を、私は自分の自然認識のあり方に関しても 味わわねばならなかった。私は、自然研究の唯一正しい方法は、自然の感官に 映じる現象をあるがままに洞察するために思考することだと考えていた。しか し思考活動によって、感覚的知覚の領域を乗り越え、超感覚的現実の解釈を志 向するような仮説を立てても、それは実際には単に抽象的思考の絵空事にすぎ ない。感覚的現象は正しく観照すれば自ずから真実を解き明かすものであり、 思考がそれを十分に確認したときには、私は仮説を立てるのではなく、まずは 観照し、霊的存在を経験しようとした。霊は感覚世界の中に実在しているので あって、感覚的直観の背後に存在しているというのは本当ではない。 (シュタイナー『シュタイナー自伝』ぱる出版/P48-49) 「親密な友情で結ばれていると思った多くの友人たち」にとっても、 思考は抽象的であり人間的に冷たいという観念がもっぱらであったらしい。 これは1980年代半ばにおいて、 「世界観に関して」「孤立無援の状況に立たされて」いるときのことだが、 この誤解はおそらくずっとついてまわったのではないだろうか。 『自由の哲学』が「思考」の一元論を説いていることに関しても、 それは、冷たい抽象であるとしか感じとれなかったのではないだろうか。 思考に対する誤解。 おそらくそれは、生きた思考を体験しえない、というか、 思考は生きたものではなく抽象であるといういう思い込みからくるのだろう。 自然認識においても、そこに生きた思考が働くことで、 その「感覚世界の中に実在している」「霊的存在」を経験することができる。 「霊的存在」は、隠されている(感覚的直観の背後に存在している)のではない。 むしろ唯物論的な認識は、物質が何であるかを「感覚的直観の背後に」隠蔽してしまう。 タマネギの中心を探そうとして、その皮をどんどんめくっていくと、 そこには何もないことを発見するように、 結論としては、「ほら、霊なんかなくて、皮があるだけじゃないか」と。 また、言葉を記録しその音声をこまぎれにして解析し、 「ほら、意味なんてものはなかったじゃないか」というように。 そこで取り逃がしているもののことに気づけないとき、 人は容易に「思考」を誤解することができる。 シュタイナーへの誤解は、あらゆるところに及んでいるが、 その根っこのところのひとつはこの生きた思考についてのところにあるのかもしれない。 その誤解は、シュタイナーに反するところよりも、 むしろシュタイナーに近いところのほうが切実だとさえいえる。 自然認識に関する思考生活の重要性について。 |