1 「自然科学への憎悪のような感情」 2「キリスト・インパルスに対する 不信の表明」 3「アントロポゾフィー運動にヒエラルキー(位階)の存在を 押しつけようとする思想」などが、現在もなお克服すべきものとして、私たち の前にあります。「キリスト・インパルス」に対する不信は、それを因習的な 宗教的教義の枠内でしか認識できないことによって生じます。そうした因習的 思考の枠を取り払い、精神科学的思考によって新たな「キリスト衝動」を得よ うというのがアントロポゾフィーの意義であり、それを否定することは、アン トロポゾフィーの総体を否定したのも同じことです。 (松浦賢/「カルマ論」集成5 シュタイナー『宇宙のカルマ』あとがきより) シュタイナーのカルマ論の訳されているところと訳されてないところを 確認しようとして、翻訳されたものをみていたところ、 『宇宙のカルマ』を訳されている松浦賢さんのあとがきに 上記の部分を見つけて、とてもうれしくなったので、 いつも言っていることなのでちょっとシツコイのだけれど(^^;)、少し再確認。 やはりこの観点というのは、とくに日本におけるシュタイナー受容において 非常に重要なところなので、常に念頭になければならない。 シュタイナーを当時の制約のなかでその限界においてとらえたがること、 そして、シュタイナーのキリスト認識に対して それを「因習的思考」でとらえてしまうことが いかにシュタイナー理解を歪ませているかに気づく必要がある。 つまり、「キリスト」とあることで、 自分がイメージしているキリスト教だと思ってしまうのだ。 そのときおそらくはキリスト教のことでさえ よく知らないことが多いのではないだろうか。 ましてや、シュタイナーのいうキリストインパルスは そういう宗教内のものではない。 そうした「因習的思考」は、海からすくいあげたバケツの水をもちかえって、 その水を調べてこういうようなものだ。 「ううん、海には鯨がいるというが、いるわけないではないか」。 馬鹿馬鹿しいまでのたとえだけれど、 実際のところそういうようなことが さももっともらしく語られているのだ。 シュタイナーをうのみにしない、というのも もっともらしく語られるけれど、うのみにしないためには、 そのいわんとするところをちゃんと受け取ろうとする姿勢が前提になる。 シュタイナーのいわんとすることを知ろうとする前に、 「うのみにしない」といって自分がいかに偏っていないかと思うことは、 上記のような因習的思考以外の何者でもないのである。 そうした「因習的思考」は、シュタイナー理解だけの問題ではなく、 どんな人でも多かれ少なかれ(もちろんぼく自身もそうなのだけれど)、 気づかないうちにそれにとらわれていることが多い。 少しでも気づいたときには、それから自由でいられるように 自分が今なにを見て何を考えているのか、を 少し距離をとりながら見てみる必要があるように思う。 |