シュタイナーノート 71

党派性について


2001.2.9〜

ヨハネス・ヘムレーベン『シュタイナー入門』(ぱる出版/2001.7.18)の
第二部で河西善治が、以前と同様、高橋巌批判を行なっている。
たとえば、こんなところ。
 
         このポルターガイスト現象や憑依というオカルト映画まがいの世界が、
        本当にシュタイナーのいう精神世界なのだろうか?もちろんそんなことは
        ない。
         だが、高橋氏によって霊学的オカルト的に訳されたシュタイナーの『神
        智学』や『いかにして超感覚的世界の認識を得るか』の修行法を読み実践
        すれば、間違いなくこの「霊界」に到達するのであろう。
        (…)
         高橋氏は『いかにして……』のあとがきで、「『より高次の』というの
        は『感覚的世界よりも高次』の意味であって」「思いきって表題を『いか
        にして超感覚的認識を獲得するか』とした」と書いてあるが、これでは高
        次と低次の区別が曖昧になり、結果として低次の世界を高次の世界にすり
        替えることになる。
        (P238-242)
 
日本におけるシュタイナーのここ数十年の受容史を考えた場合、
こうした類の批判による対立というのが
かなり目立っているのではないかと、どうしても感じざるをえない。
同じ観点での批判でも、別の仕方はできないものか。
 
高橋巌のシュタイナー解釈とでもいえるものには、
「オカルト」「超感覚」、それからブラバツキー的な神智学との同一化傾向など、
たしかにある種の傾向性を感じてしまうのは確かだけれど、
たとえば上記のような批判のなかには、
かなり批判のための批判のような傾向を感じてしまったりもする。
そういう傾向性はいったいどこからくるのだろうか。
 
しかし河西善治は、次のようにまた現状の「シュタイナー教育業界」についても
かなり痛烈な批判を行なっていたりもするように、
「左翼のような社会性」とかいうように、ある種の傾向性や意図は感じるものの、
ある種の「カルト化」批判を通じて、
より前向きのシュタイナー受容を意図しているというのはわかる。
 
	 そもそも日本人は、和辻哲郎も『日本精神史研究』で書いているように、仏教
	が伝来したときだって、その精神性を理解することなく功利主義的に換骨奪胎し
	形だけを真似たのである。明治以降の西洋文明の輸入にしたってそうだった。
	現代のわが国におけるシュタイナー教育の実践もこれと何ら変わらない。彼女
	らは教育技術をただ形態模写しているだけであり、左翼のような社会性など最初
	からないし、オカルト思想にしてもそれを隠しているわけではなく、それがどう
	いうことか理解していないだけなのである。
	(…)
	 いま日本のシュタイナーやシュタイナー教育を取り巻く現実は、形態模写とい
	う隷属する(あるいは憑依する)精神性で満ち、現実逃避からさらに一歩進みカ
	ルト化し始めている。ここにはシュタイナーの『自由の哲学』の精神性はどこに
	もない。
	 今年はシュタイナー生誕140年の年である。そして新世紀を迎えた今、私た
	ち日本人は長い眠りから醒め、自分の足(考え)でこの現実と向き合わなければ
	ならないだろう。
        (P267-268)
 
ところで、シュタイナーは人智学協会内部における深刻なまでの党派性に
常に意識を喚起させるようにしていたようである。
ヨハネス・ヘムレーベン『シュタイナー入門』でも
たとえば次のように述べられているように。
 
	ドイツにおける青少年運動の推進者たちは、人智学協会の中において、「神智学」
	的な時代の誘惑を断ち切り難いところがある年輩の協会員たちと、自負心と革命
	的な気概をもって対立し合っていた。《「老人たち」は多くのことを知ってはい
	るが、行動は僅かである。「若い者たち」は僅かのことしか知らないが、多くの
	行動をしたいと望んでいる》という意見が生まれた。このような対立は、内部的
	な分裂の試練へと発展していった。(P177-178)
 
おそらく、この時代の人智学協会において起こった対立は、
姿やその内容を変えながらも、この日本におけるシュタイナー受容においても
起こっているのではないかと思われるところがある。
 
ぼくに関していえば、シュタイナー受容を始めた十数年前において、
なんだかよくわからない分裂的なあり方の生じてしまっている状況を感じながら、
できればそういうあり方から少し距離をとっていたいという意図があったりもしたので、
現在のここでのようなスタンスになっていたりもする。
 
自分のシュタイナー受容にもそれなりのバイアスは多々あるだろうけれども、
少なくとも決定的にシュタイナー理解が欠如している状態のなか、
最初から党派的なところにおいてスタンスをとるのは
あまりにも馬鹿馬鹿しく思えたというのもある。
わからないことがあまりにも多すぎるので、
それを学ぶのに忙しいということに尽きる。
しかも、現代的な状況においては、かつての時代よりも、
はるかに個人において可能性になる部分が多いということでもある。
けれど、ぼく自身にのなかにも、自分で気づかないところで起こっている
さまざまな党派性や批判のための批判などあるのだろうと思う。
 
なぜ人は党派的になりがちなのだろうと思う。
批判のための批判のようなことを繰り返して飽きないのだろう。
党派的になるためには、認識の固定的な囲い込みのようなものが
そこに起こることが条件になるのではないだろうか。
認識の固定的な囲い込みというのは、ある種の教条化であり、
学ぶことよりも権威化されたものを守ったり
それに随ったりすることのほうを重視するということに他ならない。
権威の固定化は、姿を変えた「カルト」でもあるということにも
気づかなければならないようにも思う。
 
 

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