シュタイナーノート170
自然と人間
2012.8.28

  「自然」は、皆さんにとってなじみ深い言葉です。そして学問の分野では、自
  然科学という言い方もしています。ですから、「自然」という言葉が語られる
  とき、私たちはすぐに、実にさまざまの考えを思い浮かべます。
   また私たちは、自然を魂または精神と対比します。しかし愛する皆さん、自
  然という言葉で現代人が思い浮かべるすべては、古代ギリシアの思考にとって、
  そもそも存在していませんでした。ですから古代ギリシア人の思考の中に入っ
  ていこうとするなら、現代人の持っている「自然」という言葉の意味内容をす
  べて棄てなければなりません。現代人が自然と精神の間に感じるあの対立を、
  古代ギリシア人は感じていませんでした。森や野原、太陽や月、星の世界で演
  じられている外的な諸過程に眼を向ける古代ギリシア人は、精神を持たぬ自然
  現象などまだ知らずにいました。外なる世界で生じたものすべては、私たちの
  手を動かす行為が魂の表現であるように、古代ギリシア人にとっては霊的存在
  者たちの行為だったのです。
  (シュタイナー『ギリシアの神話と秘儀』筑摩書房
   シュタイナーコレクション4所収/P.67)

「自然が好き」という人に、「その自然というのは何?」と質問しても、
おそらくはっきりと答えることのできるひとはあまりいないだろう。
自然と自分との関係もまた同様で、考えれば考えるほど、
自然とは何かがわからくなってくるのではないだろうか。

それほどに、自然というのはあいまいに理解されているし、
それがどのように理解されてきたかをたどってみると、
それが歴史的にさまざまに理解されてきたことがわかる。
日本では、現代で使われている「自然」はNatureの訳語であって、
それまでは「自然(じねん)」、おのずからしからしむる、
といった意味で使われてきた言葉である。

『われわれは「自然」をどう考えてきたか』
(ゲルノート・ベーメ編/どうぶつ社1998.7.25発行/原著は1989年に刊行)という本がある。
西洋の「自然哲学」の代表的人物をとりあげた「自然哲学史」とでもいった内容である。

とりあげられている人物をあげると、ソクラテス以前の哲学者たち、からはじまって、順に
プラトン、アリストテレス、テオプラストス、アルベルトゥス・マグヌス、後期スコラ学、
パラケルスス、ジョルダーノ・ブルーノ、ヨハネス・ケプラー、ヤーコプ・ベーメ、
ニュートン、ライプニッツ、カント、ゲーテ、シェリング、ヘーゲル、エンゲルス、
ホワイトヘッド、20世紀のホーリズム、テイヤール・ド・シャルダン、
エルンスト・ブロッホ、アインシュタイン、コペンハーゲン学派。

訳者によるあとがきに自然哲学についてこんな解説が書かれている。

   自然科学を標榜するとき、「哲学と科学」という哲学の発生以来の基本的
  な対立が、自然を対象として問題にされているということである。自然哲学
  は、自然のあり方を問題にすることからはじまり、人間の自然にたいする本
  源的な態度を問題にする。人間と自然との関係が問題になるのである。自然
  を対象とするとき自然哲学は、自然の〝認識〟のあり方を問題にする。自然
  科学的認識は近代の認識論的枠組みのもとに成立している。認識主体を固定
  し、認識主観の外部にある自然を対象とする認識、これが自然科学が立脚し
  てきた近代の認識論的な主観ー客観図式である。自然哲学はこの前提そのも
  のを問い、この図式の根底に立ち返り、人間と自然の本源的な関係を捉え返
  そうとする。このような態度は「ブルーノ」の項を見ていただければよくわ
  かるだろう。自然の能動的な自己運動を基礎としてもう一度人間の存在を捉
  え返し、人間知を組み替えようとするのが自然哲学である。(P.513)

『われわれは「自然」をどう考えてきたか』が、ソクラテス以前の哲学者たちから
はじまっていたように、ギリシア時代以降、「自然」はさまざまにとらえられ、
現代では、主観ー客観図式的に人間と自然が対立しているようにとらえられがちである。
20世紀以降は、環境問題、生命倫理などを受け、その図式がさまざまに問い直されている。

しかし、自然について根源的に問い直し、
人間との関係をとらえなおし、あらたな次元へと向かうためには、
まずは、シュタイナーが上記の引用で示唆しているように、
古代ギリシアにおいて、自然と人間は切り離されていなかったこと、
つまり、人間の外的諸過程は霊的諸存在の諸行為であり、
人間の自然とはまったく一致していたということを理解しておく必要がある。

   すべて外の空間にあるものは、私たち自身の内面にあるのです。今日の
  人間は、自分自身の中に不思議な仕方で働く力と、外の大宇宙に働く力と
  の完全な一致を認識していません。それどころか、それを多分夢想、空想
  の類であるとしか思っていません。古代ギリシア人は、今私が述べたよう
  な言い方はしませんでしたが、それはギリシア人が主知的な文化の中にい
  なかったからで、潜在意識の中では、この外と内の一致を体得し、それを
  見霊的な立場で感じとっていました。
   私たちが古代ギリシア人のこの感情を現代の用語で語るとすれば、古代
  ギリシア人は、自分の内部に、たとえば思考内容を輝き出させる力の働き
  を感じ、そして外で虹を形成するのがそれと同じ力であると感じていたの
  です。
  (シュタイナー『ギリシアの神話と秘儀』筑摩書房
   シュタイナーコレクション4所収/P.75)

わたしたちはもはら古代ギリシア人のような自然との関係をもつことができないし、
単に古代ギリシア人のようになることを課題としてはいない。
では、どのように自然との関係を創っていく必要があるのか。
それを示唆している重要な存在が、ゲーテである。
その自然学や芸術についての視点について、
今後、おりにふれて見ていくことにしたいと思っている。