シュタイナーノート169
上から下へ、下から上へ
2012.6.29

   人間は下から上へ発達していき、最後に意識魂という人間本性の花を咲かせます。
  魂をキリスト衝動に向き合えるようにするためにです。五つの文化期を通して与えら
  れてたエーテル体、アストラル対、感覚魂、悟性魂=心情魂、意識魂、この五つの人
  間本性部分は、下から成長していきました。私たちはこれらを発達させ、育成し、利
  用して、時が来たらキリスト衝動の作用を受けることができるようにしてきたのです。
  人類は、未来において、すべての人がキリストを受け容れることができるまでに、進
  化を遂げることができるでしょう。しかしそのためには、この五つの本性部分が下か
  ら上へ、ふさわしい仕方で育成されなければなりません。
   人類がそうしようとしなければ、キリストを受容するまでに成熟することはないで
  しょう。転生を繰り返す中で、キリストを受容するために、この五つの本性部分を大
  切に育成することができなかったら、キリストが来ても、五つの本性部分はキリスト
  と結びつけず、「自分のランプに燈油を注ぐ」こともないでしょう。
   私たちはこの五つの本性部分を燈油ないままにしておくこともできます。自分のラ
  ンプに燈油を注がなかった人びとのことは、「五人の愚かな娘たち」の逸話(第25章)
  の中で、みごとに、美しく描かれています。この娘たちは、正しいときに自分のラン
  プに燈油を入れておかなかったので、キリストと結ばれることができませんでした。
  しかし燈油を用意しておいた五人は、正しいときにキリストと結ばれました。
  (シュタイナー『イエスを語る』(マタイ福音書講義)
   筑摩書房/シュタイナーコレクション5/P.322)

   キリスト教なしに、この物質化の時代に入っていったなら、人類はふたたび上昇衝
  動を見出すことができなかったでしょう。人類の中にキリストの植えつけた衝動が働
  かず、人類全体が物質界に埋没してしまったなら、オカルティズムの言う「物質の重
  みに捉えられて」、正常な進化から脱落してしまったでしょう。
   物質の中に押しやられ、そのもっとも深い奥底にまで達する前に、衝動がふたたび
  反対の方向へ向かわせるのです。それが「キリスト衝動」です。キリスト衝動がもっ
  と以前に働いたとしたら、人類は物質上での進化を遂げなかったでしょう。キリスト
  が古インド文化期に地上に受肉したとしたら、人類はキリストの霊的要素に浸透され
  たでしょうが、物質の中に深く埋没することなく、今日の外的物質文化のすべてを決
  して創り出すことができなかったでしょう。
  (シュタイナー『シュタイナー ヨハネ福音書講義』春秋社/P.217)

「人はどこから来て、どこに行くのか。」
その問いに対する答え方はさまざまだ。

人の生死に関して、来し方行く末をいう場合、
生まれてくる前はどこにいて、
死んだあとはどこに行くかということになる。

その問いよりも視点をずーっとズームバックすれば、
人類はどのように進化してきたか、
そしてこれからどのように進化していくかというふうに広がっていく。

そして、それに対して、シュタイナー的な視点でいえば、
きわめて単純にいえばこういうことになる。

人は上から下に来た。
そして、その下から上に行かなければならない。

なぜ上から下に来なければならなかったのか。
それは、下(物質上)で進化が必要だったからだ。
なぜ下で進化が必要だったかについては、よくわからない。
ぼくが理解している範囲で、ぼくの好みの表現を使えば、
「宇宙は遊びたがっている」ということなのだと思っている。
ほんとうに壮大な遊びだ。

上にあったものを、下で物質という形で顕現させる。
たぶんそのことは、とても喜ばしいことなのだろう。
そして、その下から、今度は上に向かう。
そのプロセスは、もっと喜ばしいことなのだろうし、
その上に向かうために、わざわざ下に来たということなのだろう。

下に来たということが、今は忘れられている。
はじめから下にいて、そのままそこにいると思っている。
記憶を失って、自分のほんとうの名前を忘れた世界で、
そういう忘れた人が集まって、下で試行錯誤している。

最初は、下に来たということを覚えていた時代、
というよりは、完全に下に来てはいない時代があって、
そのときには上と下がそれなりにつかがっていたが、
それが次第に切り離されてしまうようになる。
それで、宗教が必要にもなった。

人は、下だけで試行錯誤だけするのに耐えられなかったのだろうし、
下だけだと思ってしまうと、上へ向かうことを忘れてしまうからだろう。
そして、多くの人が上を忘れてしまった。
そして忘れたくない宗教の人たちの多くも、
その宗教特有の「教え」の範囲のなかで
上に対するそれなりの投影しかできなくなっている。

神秘学が必要なのは、繰り返になるが、こういうことを知っておくためだ。
人は上から下に来た。
そして、その下から上に行かなければならない。
下から上へいくために必要なことがある。
そもそも下から上へ行くためには、
物質から、エーテル体、アストラル対、感覚魂、悟性魂=心情魂、意識魂へ
という方向づけがあるということを理解しなければならない。
下から上へ、自分で梯子を登っていかなければならない。
物質だけだと思っていると、梯子を登ろうとさえ最初から考えさえしないだろう。

とりあえず現代においては、
意識魂という段階にまで登っていけば、
キリストを受け容れる力を育てたことになるようである。
上記引用でいえば、「自分のランプに燈油を注ぐ」ということだ。

禅で、「啐啄同時(そったくどうじ)という言葉がある。
卵の中のヒナ鳥が殻を破って生まれ出ようとする時、
卵の殻を内側から雛がコツコツとつつくことを「啐」(そつ)。
ちょうどその時、親鳥が外から殻をコツコツとつつくのを「啄」(たく)。
その両方が同時にあったはじめて、雛は殻を破って生まれ出ることができる。
少しでもタイミングを間違うと、雛は死んでしまうかもしれない。
早すぎても、遅すぎてもいけない。
「同時」でなければならない。

「キリスト」を宇宙進化のプロセスにおいて理解するためには、
そこらへんのことを理解しておく必要がある。