シュタイナーノート166
なぜならあなたの存在そのものが悪だからです
2012.2.22

   「なぜクモがこんなにイヤなのでしょうか。」
   「なぜならあなたの存在そのものがクモだからです。」

   こんな会話をシュタイナーが弟子のひとりと交わしていた、と以前
  きいたことがある。ずいぶんの以前のことだが、かなり強烈な印象と
  なってあとに残った。私の中で悪のことが問題になってから、この会
  話は悪を語っている、と思うようになった。
   「なぜ悪がこんなにイヤなのでしょうか。」
   「なぜならあなたの存在そのものが悪だからです。」

   本書は、現代という過酷な時代を生きるわれわれ一人ひとりが悪そ
  のものであることを、さまざまな観点から論じているが、そうでなけ
  ればならない理由も、はっきり語っている。しかしそうだからといっ
  て、善を否定して、悪を肯定せよ、と主張しているのではない。その
  反対である。
  (シュタイナー『悪について』 訳者(高橋巌)あとがきより
   春秋社 2012.2.15.発行)

高橋巌さんによる編訳のシュタイナー『魂について』、『死について』に続いて
3部作の3冊目となる『悪について』が刊行された。
当初、昨年の暮れには刊行されるということだったが、
なにかの事情によるのだろう、ようやくこの2月になって読むことができた。

「なぜならあなたの存在そのものが悪だからです。」
というのは、現代人の基本的認識の出発点でなければならないと常々思っている。
そうでなければ、逆に「悪」に知らず絡み取られてしまうことになるからだ。
私たちはみずからが「悪」であるという矛盾の中を生きることを余儀なくされている。
そのことを自覚できるかどうかがきわめて重要な意味をもっている。

善人なおもて往生を遂ぐ、いわんや悪人をや、でさえないのかもしれない、
自分を悪とは無関係で、なにかを悪であると糾弾して生きることは、
むしろみずからが悪であるという矛盾から逃避させ、
悪の罠に陥ってしまうことになる。
もちろん悪なのだから悪でいいじゃないかと開き直ってしまっては話にならない。
これもまた矛盾を生きることからの逃避でしかないからだ。

さて、「悪」にかぎらず、
たしかに私たちが忌み嫌うものというのは
私たちがその忌み嫌うものそのものである、
ということはかなり真実を突いているように思える。

誰かを嫌いで仕方がないというのは、
その嫌いなだれかが自分のなかにいるということでもある。
でなければ、嫌いというようなきわめて積極的な感情は起こらないだろう。
「あの人ってだい嫌い」というのは、そこに自分の鏡を見ているわけである。

だからといって、人に対して無関心であったほうがいいというわけでもなく、
重要なのは、その「嫌い」ということによって
それが自分のある種の「鏡」であるということに気づくことで、
その矛盾に身を置いてみるということ、
ではその「嫌い」な部分を自分は克服しているのかどうかを
自問してみることに意味があるわけである。

こうして地上を生きている私たちは、
そうしたライブな、生々しいまでのさまざまな矛盾を
自覚的に生きることによってこそ、おそらくはなにがしか進むことができる。
たとえ自分がある「弱さ」のなかに生きているとしても、
その「弱さ」そのものに浸ったり逆にそれを手段に使ったりすることなく、
その自覚のなかにいるということが重要であるように思う。
逆に権力などの「強さ」のなかに生きている場合でも同様である。