シュタイナーノート163
火の試練・水の試練・風の試練
2011.10.24


「火の試練・水の試練・風の試練」については、
『いかにして超感覚的世界の認識を得るか』のなかの
「霊界参入の三段階」、
「準備」「開悟--思考と感情の統御」「霊界参入」の
「霊界参入」のなかでとりあげられている。

これについては、トポスホームページの「シュタイナー研修室」にある
「「いかにして超感覚的世界の認識を得るか」を読む」において、
稚拙ながら(15年ほど前か・・・)その内容を辿ってみたことがある。

これはまさに「霊界参入」について書かれてはいるのだが、
「霊界参入」という言葉から受ける何か特別なイメージで受け取るよりも、
「日常生活」における私たちの態度ということで理解し、
自己検証することでこそ多くの場合、得るものが多いのではないかと思われる。

実際、いわば「秘儀参入」というのは、
霊的進化を人類全体の段階よりも先取りすることであり、
先取りする以上、その場合の私たちの「生」は
より厳しい「試練」に晒されざるをえないということになる。
それが外的なものからの働きかけになる場合もあれば、
また内的な衝動として起こる場合もあるだろうが。

世界全体に深く影響をあたえずにはいない「試練」についても、
その視点から理解をすることができる。
「試練」は無意味に起こるのではなく、
そこでなんらかのものを霊的進化において獲得するために
起こるというふうに理解可能である。
とはいえ「ために」ということについては、
安易で短絡的な「理解」は、むしろ理解の妨げになることもあるので、
注意が必要なのではあるが。

さて、これらの「試練」で求められるのは、いわば深い自己信頼である。
火の試練では「忍耐」、水の試練では「自制心」、風の試練では「決断」。
そしてそれらを外的なものからの働きかけからではなく、
また自分をささえてくれるものを外的に求めるのでもなく、
自分自身だけを自分の支えにしなければならない。
日常生活におけるこれらの試練と関連したことを本文から抜き出してみる。
(引用ページは「ちくま学芸文庫」版より)
自分がいかにそうしたことができていないかを思うと、
ちょっと情けなくもなるのだけれど・・・・。

まず、「火の試練」。

  或る人たちの場合、日常生活そのものが多かれ少なかれ無意識的な
  「火の試練」による霊界参入の過程を示している。その人たちは豊
  かな経験を通して、自己信頼、勇気、不撓不屈の精神を健全に育成
  する努力を重ね、苦悩、幻滅、失敗を魂の偉大さ、特に内的平静と
  忍耐力とをもって耐え抜く術を知っている。(P.93)
  
続いて、「水の試練」。

  気まぐれや恣意にではなく、崇高な理想や根源的な命題に従う能力
  を獲得した者、個人的な好みや性向が義務を忘れさせようとする場
  合にも、常にその義務を遂行できる人は、意識しなくても、すでに
  日常生活の中での霊界参入者である。(P.99)

そして、「風の試練」。

  突然一生の大問題を迎えて、おそれることなく、あまりくよくよも
  せずに、すみやかな決断を下すことのできるようになった人物にと
  って、人生は修行の場であったに違いない。すぐに手を打たないと、
  取り引きを成功させることができなくなってしまうような状況はす
  ぐれた道場であるといえる。不幸が予想でき、少しでも躊躇したら
  その不幸が現実になってしまうようなとき、ただちに決断を下せる
  人、しかもそのような決断力を自分の変わらぬ性質にしている人は、
  意識せずとも、第三の「試練」を通過しうるところにまで達してい
  る。(P.103-104)

上記で示唆したように、いうまでもないことだが、
この「火」「水」「風」の試練を
今回の東日本大震災やそれにともなって起こった原発事故にも
象徴的に対応させて理解することもできるだろう。
「風」といえば、アメリカでのハリケーンによる災害も起こったが・・・。

私たちは、「忍耐」し、「自制」し、「決断」することを求められている。
おそらくはそうした「試練」での私たちの態度の総体が、
日本だけではなく世界全体においても今後の進化の「型」となっていくのだろう。

私たちはその「試練」に対して、
ある種の「空気」としてそうするのではなく
内的な自由から向かわなければならないのだろうし、
またそれによって多大な糧を得ることもできるだろうが、
しかし、私たち一人ひとりにとって最重要なのは、
私たち一人ひとりの日常生活における「試練」から
目を逸らさないでいることなのだろう。

私たちは、外的な権威や支え、価値によらず、
自らを唯一の支えとして立ち向かわなければならない。
まさに「自由の哲学」である。

「風の試練」での記述にこうある。

  最後のこの試練にはどんな目標も感じられない。すべては彼自身の
  手に委ねられている。何ものも彼を行為に駆り立てようとはしない。
  そのような状況の中で、彼はまったく独りになって、自分で道を見
  出さねばならない。どこへ向かっていったらいいのか、自分自身の
  他には、自分の行くべき方向を示し、自分の必要とする力を与えて
  くれるような何ものも、何ぴとも存在しない。(P.102)

そして、必要なのは新しいものを洞察する力である。
そのためには、過去の権威や価値から自由でなければならない。

  すべての新しい体験をその体験から評価できる能力を身につけなけ
  ればならない。そして一切の過去の経験によって曇らされることな
  く、自分をその体験の作用に委ねなければならない。どの瞬間にも
  事物や存在がまったく新しい啓示を与えてくれる、という観点を忘
  れてはならない。新しい事柄を古い事柄によって評価することは、
  誤謬を持ち込むことに通じる。古い経験は新しい何かを洞察する上
  でこの上なく役だってくれる。もし私が特定の経験をしなかったら、
  今私の前に現れている事物や存在の特徴をおそらく全然洞察するこ
  とができなかったであろう。しかし新しいものを古いものによって
  評価することではなく、まさに新しいものを洞察するためにこそ、
  経験が利用されねばならない。(P.106-107)

そうすることで、すべては新しい光のもとに
常に新たな相貌を顕わしてくる。
そしてどんなに小さく些細なことも
輝ける永遠となる可能性に向かって開かれる。