シュタイナーノート160
思考の自己教育と思考の断念
2010.8.25

   概念を操作する思考によって、あるいはまた、諸経験を思考で関連づける
  ことによって、その概念を客観的な現実と一致させることができると考える
  人にとって、ある事柄が証明でき、その反対の事柄も証明できることを認め
  るのは、とても困ったことです。なぜなら、証明を通して現実にいたること
  ができない、というのと同じことなのですから。
   けれども、決定的な事態に直面したとき、思考が現実に関して何も決断で
  きないことを学んだ人、もっぱら賢くなるための手段として、叡智を獲得す
  るための自己教育の手段として、思考を行使することを学んだ人にとっては、
  あるときはこれを、他のときはあれを証明できたとしても、困ったことには
  なりません。なぜなら、概念操作によって現実を把握することがまったくで
  きないからこそ、自由に概念や理念を行使して、自己を教育できるのですか
  ら。
   もし思考がその都度現実によって訂正されたなら、概念を操作することが
  自由な自己教育の手段にはならないでしょう。概念を自由に行使しても、現
  実が私たちを妨害しないからこそ、思考が自由な自己教育の手段になりうる
  のです。
   「現実が私たちを妨害しない」とは、どういうことなのでしょうか。(略)
  人間が思考上間違いを犯すときには、単なる間違いに留まり、それ以上でも、
  それ以下でもありません。なぜなら、それは単なる論理上の間違いなのです
  から。あとで、間違いを犯したことがわかれば、それを訂正することで、自
  分の欠点を補うことができます。それによって、少しは利口になれるのです。
   けれども、神の思考は、正しく考えられたなら、何ごとかを生じさせ、間
  違って考えられたなら、何ごとかを破壊します。ですから、もしも私たちに
  神的な思考が可能であるなら、間違った概念を作るたびに、ただちに破壊過
  程が、初めは私たちのアストラル体に、次いでエーテル体に、さらには肉体
  に生じるでしょう。(略)思考が現実に関わらずにいられるように守られて
  いるからこそ、私たちは現実の中を生きていけるのです。
   こうして私たちの思考は、平気で間違いを重ねます。そしてあとでその間
  違いを正すことで、自分を教育し、自分を賢くします。私たちは、思考が間
  違っても破壊的な作用を受けずに生きていきます。しかし、私たちが思考の
  道徳的な力を育てていくと、人生の決定的な瞬間に、思考を働かせるのを
  諦めるところまで達します。
  (中略)
   大切なのは、次のような心を養うことです。ーー「生きていくためには、
  判断しなければならない。しかし、判断する必要に迫られるのは、真実を認
  識するときではない。真実を認識するときには、常に慎重に、自分を客観的
  に眺め、自分の下す判断を常に疑問をもって受け取らなければならない」。
   それでは私たちが判断してはならないのだとしたら、どうしれば真実につ
  いて考えることができるのでしょうか。(略)私たちは事物に語らせるべき
  であり、事物に対してもっともっと受身で接して、事物にその秘密を語らせ
  るべきなのです。判断を下す前に、事物にその秘密を語らせるなら、多くの
  余計な判断を避けることができます。
   このことをゲーテが教えてくれます。ゲーテは、真実を探求しようとする
  ときには、判断を下すことを避けて、事物そのものに秘密を語らせようとし
  ました。
  (シュタイナー『感覚の世界から霊の世界へ』P.37-
   筑摩書房「シュタイナー・コレクション2」所収)

私たちの「思考」は、「現実」に関わらない。
あることを「証明」することも、それと反対のことを「証明」することさえできる。
それは、間違っているかどうか以前に、「現実」に関わっていないということである。

しかし、これは、悲しむべきなことではない。
「現実」に関わらないからこそ、間違うことのできる自由を得ている。
もし「思考」することが「現実」と関わっているとすれば、
間違った「思考」は私たちを破壊してしまうことになる。
「初めは私たちのアストラル体に、次いでエーテル体に、さらには肉体に」
破壊過程が生じることになる。

「思考」が現実化するということもいわれたりするが、
もし、そんなことになったとしたら、
世界は混乱した思考ー現実によってカオスになってしまうだろう。
「思考」という青写真はそのままでは「絵に描いた餅」で食べることはできず、
それを現実化するには、具体化のためのさまざまな行動や働きかけが必要になる。
そしてそのプロセスにおいて、「思考」は修正されることになる。
建てることのできない設計図のまま建物を建てることはできない。
だからこそ、間違った設計図だけでは、それをつくった私たち自身は、
その間違いを自分の心身によって償わなければならないことはない。

さて、「思考」は「現実」に関わらないからといって、
「思考」しなくていいというわけではないのはもちろんである。
間違うことが許されているからこそ、
私たちは「自由な自己教育の手段」として「思考」を活用しなければならない。
なんどもなんども設計図を書いては修正し書いては修正していくことができる。
そんななかで、少しなりとも明らかな間違いを正していくことができる。
それはある意味で「思考」による自己教育であるといえる。

そして、である。
道元の正法眼蔵に「自己をならふというは自己を忘れることなり」とあるが、
おそらく、「思考」による自己教育の果てには、「思考」の断念があり、
それはまさに「自己を忘れる」ということにほかならないのだろう。
最初から「思考」を断念するのではなく、
「思考」による自己教育というプロセスを経て、
ある意味で、「思考」が熟したとき、「思考」は自ずから落ちていくのだろう。
そして、芭蕉の「松のことは松にならえ 竹のことは竹にならえ」
という言葉にもあるように、
「事物にその秘密を語らせる」ことができるようになるのだろう。

しかし、「思考」を断念するということはかぎりなく困難なことだろう。
「松」の前で、「私」は「松」を対象化し、そのまわりをぐるぐるとまわり続ける。
ジャコメッティが「本質」を見つけ見続け、知覚と表現のあいだを埋めるべく、
いつまでもいつまでも描き続けるように。
おそらくそうした営為は、ある種の「断念」を迎えるまで
続けなければならないのかもしれない。
そうすることによってはじめて、「事物」はその「秘密」を語り始めるのだろう。