シュタイナーノート159
「外界」と世界観
2010.8.2

   「聖杯の認識」からは、人間の進化のための考えうる最高の理想が見えてくる。
  すなわち、みずからの働きによって、霊化を達成するという理想である。この霊化
  は、現在の地球紀の第五、第六文化期に獲得された知性や感情の力と超感覚的世界
  の認識とを統合させることによって生じる。われわれが、みずからの魂に働きかけ
  るとき、われわれの魂は、最後には霊的な外界になる。
   人間の精神は、外界から圧倒的な印象を受けるとき、この印象の背後に働く霊的
  本性たちをはじめは予感するだけだが、あとになると、その働きを認識の対象にす
  る。人間はこころを通して、この霊的な存在たちの限りない崇高さを感じとるが、
  しかしまた、自分の内なる知的、感情的な諸体験が未来の霊的外界の萌芽なのだと
  いうことを、認識することもできる。
  (シュタイナー『神秘学概論』ちくま学芸文庫/P.424-425)

人は死んだらどうなるのか。

肉体現象としていえば、生命としての活動を停止した後は、
「動的平衡」をとることができなくなりただエントロピーが増大するだけになる。
つまり腐敗していく。

この現象を使って、仏教では、死体が腐乱して白骨になる過程を観察する
「不浄観」なる瞑想などをおこなって煩悩を取り去ろうとする修行をしたりもしたらしい。
鎌倉時代の『九相詩絵巻』が有名である。

そして、人間を物質的な肉体だけだと思っているならば、
葬儀やら墓やらは原則として不要である。
しかしなぜか死んだら終わりだと思っているひとも、
葬儀やら墓やらを必要としているようなところがある。
ある人はそうしたものは遺された人のためだという。
たしかにそういうところもあるだろうが、そればかりでもなさそうで、
実際は死後はただ消滅するという観念に耐えられないからなのだろう。
逆説的にいえば、だからこそ始末の悪いことに葬儀やら墓やらが必要になる。

上記に「われわれが、みずからの魂に働きかけるとき、
われわれの魂は、最後には霊的な外界になる」とあるが、
「最高の理想」としての「聖杯の認識」ではなくとも、
多かれ少なかれ、死後においては、
自分の「魂」が「外界」として現出してくることになるのだろうとぼくは思っている。

自殺しないほうがいいのは、
自殺するということが、死後「外界」として現出する世界を
なくしてしまうことになるからなのだろう。
死んだら自分の終わりだと思っている人にとって葬儀や墓が逆説的に必要になるのも、
自殺までいかないにしても、死後「外界」を現出させるための
なにがしかの契機が必要となるからだろうと思う。
もちろん、葬儀を行い、墓をつくることで、
それそのものがある種の虚妄の世界づくりに貢献してしまうこともあるだろうが、
つまり、墓や生前の世界にしがみついていたりするだけだとしても、
世界が現れてこないよりは、ある種の救いにはなるわけである。

しかし、さらにいうならば、生きていても、
多くの人はかなりな部分を自分の魂を投影した世界に住んでいるところがあるように思う。
仏教が「執着」と呼んでいるものに依存して人は世界をつくりだしているわけである。
そしてこうして生きている以上、すべての「執着」を脱していきることはできない。
息をしないわけにはいかないし、食べないわけにも、眠らないわけにもいかない。
ひたすら「只管打坐」の行に打ち込んだとしても、
そしてそれが寺のシステムに堅固に護られていたとしても、
また行住坐臥を修行とみなしていたとしてもどこかで限界はでてくる。
そして、そのようにまったく閉じることができないというところに
こうして生きていることの意味があるようにも思う。

重要なのは、「執着」をただ断つ云々というよりも、
自分が「執着」を通じてつくりだしている「世界」のことを
できうる限り意識しているということなのだろう。

「不浄観」のような瞑想が有効に働くこともないではないだろうが、
そうした瞑想はある意味ではとても悲しく貧しい瞑想だし、
それが果たして執着を断つことにつながるかどうかはわからない。
たとえばベンツのような高級車や豪邸のような家などに狂おしいほどの執着をもっていて、
それを「不浄観」によって、朽ち果てていくことを瞑想しても、
名声などへの執着が強いが故に、それが零落していくことを瞑想しても、
それらがあまり効果的だとは思えないようなものである。

人はこうして生きていることそのものが
無意識的にせよ、ある世界観の表現になっているようなところがあり、
その自分がつくりだしている、もしくは拝借している世界観そのものが
どのようなものであるかを見直してみないかぎり、
そしてその世界観のなかで自分が現在どのような立ち位置にあり、
どのような世界を理想としているのかに基づいて、
それを方向づけようとしないかぎり、「世界」は変わらない。
しかも「世界」は今この自分の「魂」の能力に沿ったものとしてしか現れない。
とはいえこうして肉体をもって生きている以上、
自分が思い込んでいる「世界」そのままではなく、
その矛盾と葛藤のゆえにそこにある種の「外部」を持ち得ることで
私たちはなにがしかの成長の可能性をもっているのが大きい。

もちろん、「世界」には可能性として、とくに現代のような世界においては、
高次世界の理想に関するさまざまな情報やそれにふれるきっかけが提供されているが、
それを選択できるかどうかは、自分の「魂」のなにがしかの機縁が必要となる。
「人間の進化のための考えうる最高の理想」といっても
それはどこまでみずからの「魂」がとらえられるかどうか、
とらえることのできる範囲での「最高の理想」でしかないのである。

だから、禅の修行を通じて、自己を忘れ心身脱落することで、
最初は、山は山でしかなかったものが、
やがて山は山でなくなり、
それを経てのちようやく、山は山になるのだろう。
そしてそれが不断の修行を通じて展開していく無限のプロセスがある。
春は花夏ほととぎす秋は月冬雪さえてすずしかりける、である。