シュタイナーノート157
感覚器官としての快と苦へ
2009.5.14
快・不快から自由であること。
喜び・苦しみから自由であること。
もちろん、快・不快を去るというのでも、
喜び・苦しみを去るというのでもない。
それらの体験とともにありながら、
それらから自由であるということ。

快・不快、喜び・苦しみという体験を
自分そのものとしてとらえてしまうとしたならば、
そこからの自由はありえない。
そうした体験をするのは自分でありながら、
その体験に対する自分の位置を検討してみることが必要である。

つまり、そうした体験を、
目や耳で、見たり聞いたりする体験のようにとらえること。
外界を知覚するように、快・不快、喜び・苦しみを体験する。

そのことについて、『神智学』の「認識の小道」の章から。
シュタイナーは、快と苦を内的な感情から
外界を知覚する感覚器官に変化させることを示唆している。

   事物が私に快を与えるということが私にとって大切なのではない。
  私が快を体験するとき、その快を通して事物の本質を体験すべきなの
  である。快とは、私にとって、事物の中に快を与えるに適した或る性
  質がある、ということの表現以上のものであってはならない。私は、
  この性質を認識することを学ばねばならない。快のもとに留まり、快
  にまったく心を奪われてしまっているなら、ただ生活を享受するだけ
  の存在に過ぎなくなる。快が事物の特質を体験するための単なる機会
  に過ぎなくなれば、この体験を通して、私の内部はより豊かになる。
  快と不快、喜びと苦しみは、道を求める者にとって、事物について学
  ぶ機会でなければならない。
   道を求める者は、このことを通して、快と苦に対して鈍感になるの
  ではなく、快と苦が自分に事物の本性を打ち明けてくれるように、快
  と苦から自分を引き離すのである。この方向へ向けて努力するなら、
  快と苦がどれ程優れた教師であるか理解するようになるであろう。そ
  のとき人は、すべての存在とともに感じ、それによってその存在の内
  部からの開示を受け取るであろう。道を求める者は、「ああ、苦しい」
  とか、「本当に嬉しい」とか言うだけではなく、その苦悩がどう語り
  かけてくるか、その喜びがどう語りかけてくるかをも、常に知ろうと
  すべきである。外界に見出す快と喜びとを自分に作用させようと努力
  すると、自分と事物とのまったく新しい関係が育ってくる。以前は、
  特定の印象を受けとると、その印象がよかったとか、不快な気持ちに
  させたとかという理由だけで、あれこれの態度をとってきた。しかし
  快と不快とを自分の器官とした今、この器官を通して、事物がその本
  性について語り始める。快と苦とは自分の内部の単なる感情から、外
  界を知覚する感覚器官にまで変化する。
  (シュタイナー『神智学』ちくま学芸文庫 P.201-203)

感情や感覚を制御するということにほかならないのだけれど、
それは、感情や感覚をスポイルする、
鈍感になるということではなく、その逆のこと。
感情や感覚にふりまわされる自分を見つめ直し、
感情や感覚による体験が自分に与えるものに意識的になること。

そのためには、感情や感覚のための器を大きくする必要がある。
小さなコップにたくさん水を注いだらあふれてしまうけれど、
器を大きくすれば水はあふれずに受けとめることができる。
そしてあふれる水、堤防が決壊して大騒ぎする状態ではなく、
自分のダムに溜まった水を観察し、その有効利用を検討する。
洪水となった水は、被害を与えるだけだが、
貯水された水は、生活用水に、電力にと利用できる。

「ああ、苦しい」と、苦しみの前でなすすべもなくなるのではなく、
その苦しみが自分に語りかけているものを聞き取り、
その内容を理解し、検討し、そこから学ぶことができる。
「本当に嬉しい」と嬉しさといっしょに踊るだけではなく、
その嬉しさが自分に語りかけているものを聞き取り、
その内容を理解し、検討し、そこから学ぶことができる。
そうすることで、生における逆境や順境といった運命に対しても、
その命を運ばれて、宿命にしてしまうのではなく、
自分でその命を立てることが可能になる。