シュタイナーノート155
もっとも遠大なプロセスと しての「境域の大守護霊」への道
2009.4.26

   このような仕方で「境域の大守護霊」は第一の守護霊との出会いの後、ま
  もなく自己を現す。しかし一度霊界に参入した者は、自分が未熟なままに高
  次の超感覚的世界に踏み入りたいという誘惑に陥るとき、何が自分を待ち受
  けているかを正確に理解している。筆舌に尽くし難い壮麗な輝きが第二の守
  護霊から発している。この霊とひとつに結ばれることは、それを見る魂にと
  って、はるかな、しかし切実な努力目標である。しかしこの目標の存在と同
  様に確かなことは、現界から得たすべての力を現界の解脱と救済のために費
  やしたときはじめてこの合一が達成される、ということである。超感覚的な
  輝きを示すこの霊姿の要求に応じようと決心すれば、人類の解脱と救済のた
  めに寄与することができるであろう。そのようにして人は人類の祭壇上に供
  物を捧げる。彼は超感覚的世界への解脱を必要以上に早めるとき、人類の大
  きな流れは彼の頭上を通り過ぎていく。自分のことだけを考えれば、解脱し
  た人が感覚界から新しい力をさらに取り出す必要はない。それにもかかわら
  ず感覚界のために自分を捧げようとする行為は、これからの活動の場所から
  自分の利益を引き出すのを断念することを意味する。このような決断の前に
  立たされたとき、人が常に白い道を選ぶという保証はどこにもない。この決
  断に当っては、自分の利己心が浄福への誘惑に陥らずにすむというほどにま
  で、修行ができているかどうかに、すべてがかかっている。なぜならこの誘
  惑こそ考えられうる最大の誘惑だからである。そしてこれ以上には本来特別
  な誘惑など存在しない。ここまでくれば、何ものもそれ以外に利己心に訴え
  かけてはこない。人間が高次の霊的諸領域で受け取るであろう事柄は外から
  彼の方へ来るのではなく、もっぱら彼から発して外へ向かうところの、周囲
  に対する愛である。黒い道には利己心の要求がまったく不可欠である。そし
  てこの小道の成果は利己心の完全な満足に他ならない。それ故もし誰かが自
  分のために浄福感を求めるなら、その人は確実にこの黒い道をさまようこと
  になる。
  (シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』
   ちくま学芸文庫/P.252-253)

さて、「境域の小守護霊」において
自分のありのままの姿に直面した後には、
「境域の大守護霊」がその壮麗な姿を現す。
それは、自分のはるかな理想であり、到達すべき目標である。

その時点は、マラソンにたとえれば、
最終のゴール間近のコーナーというのでは決してなく、
ようやくスタート地点に立つことができたというくらいの場所である。
それにも関わらず、自分がその壮麗なはるかな理想に近づきたいと思うあまり、
自分がその近くにあると思いこんでしまうことは大いなる錯誤になる。
つまり、マラソンのスタート地点とゴール地点の間には
42.195キロというプロセスがある。
そのプロセスを抜かしてしまうことはできない。
山の頂上に至るために、飛行機などをつかって、
その頂上にいきなり着地することは、登ったことにならない。
重要なのは、一歩一歩ののプロセスなのだから。

そしてその一歩一歩のことを「愛」と名づけることもできるだろう。
愛は、プロセスなくして、自己を利することではなく、
もっとも大いなる遠回りをしながら、
つまり他者というプロセスを最大限通りながら、
その上で、自己を最大化するものだということもできるかもしれない。
そのとき、自己は他者をも含むものとなる。
すべての責任を自己のものとして「自己認識」できるということ。
それが「愛」の目標であり、「愛」そのものであるということがいえるのだろう。

プロセスを抜かしたとき、それは「黒い道」となる。
目の前に、理想とする壮麗が姿がある。
自分はそれに自己同一化したいと欲望する。
しかし目の前の理想は、もっとも遠い道である。
そのもっとも遠い道を歩もうとするか、
目の前の姿をすぐに得ようとするか。
その違いが「白い道」と「黒い道」を分ける。

仏教の浄土教の『無量寿経』の四八願の「第十八願」に
「たとい我、仏を得んに、十方衆生、
心を至し信楽して我が国に生まれんと欲うて、乃至十念せん。
もし生まれずは、正覚を取らじ。唯五逆と正法を誹謗せんをば除く」
というのがある。

つまり、上記の引用で
「現界から得たすべての力を現界の解脱と救済のために費やしたとき
はじめてこの合一が達成される」とあるように、
すべての人が悟ることなくして自分の悟りもありえないということ。

つまり、自己の中心には今この小さな自我があるわけで、
それなくしては自分は自分であることができないわけだけれど、
その自分を現在のままの小さい姿のままにしておくことはできない。
すべての人をもふくめた「自己」とすることができるかどうか。
その「道」の歩み方が試されるということである。

むずかしいのは、この歩みは、この地上での歩みにおいて
達成されなければならないということ。
小我としての私という中心点をなくして
歩むということはできないということである。
いかに小さくても自分は自分。
その自分を振り返るということなくしては成立しないということ。
我をなくすといって、自分をふりかえることを回避する言い訳にはできない。
それがいかに「無我」であったとしても
それは必要な遠回りではなく、近道を選ぶ隠されたエゴになってし
まうわけである。
つまり、「白い道」のようなメッキを施された黒い道ということになる。