シュタイナーノート154
境域の小守護霊と自己認識
2009.4.26

「自己認識」はとても難しい。
自分のありのままの姿をそのまま鏡に映し
それを見ることはまず通常は不可能に近いだろうし、
自分のほんの一部分でも映っているところを見ることができたとしても、
その姿から目をそらさずにいることさえ難しいだろう。

「境域の小守護霊」はまさに、その自分のありのままの姿が
そのまま自分の前に現れたものだということができる。
その姿をふつうは目の当たりにしないでいられるということは
なんと幸せなことだろうか。
しかし、自分の生み出したものの総体がいったい何なのか、
それをさまざまに認識しようとすることなくしては、
人間の成長はありえないということも理解しておく必要があるよう に思う。

   前章(引用者注:「境域の守護霊」)では、いわゆる「境域」の小守護霊
  との出会いが人間にとってどれ程重要なものであるかについて述べた。
  この出会いを通して人間は、小守護霊という超感覚的存在を生み出し
  たのが自分自身であったことを知った。この存在の体は人間自身の行
  為、感情、思考の諸結果から構成されていた。この諸結果をこれまで
  は見ることができなかった。しかし、この眼に見えぬ働きこそが、人間
  の性格と運命とを作り出す原因だったのである。どれ程人間が過去の
  間に現在のための基礎を作り上げてきたか、今やそれが明らかにされ
  る。人間の本質がそれによって、或る程度まで分かってくる。自分の中
  にある特定の傾向や習慣が、なぜそのような在り方をしているのか、
  今彼はそれを理解することができる。運命の打撃が彼を襲ったとしよう。
  今彼は、それがどこからやってきたのかを明瞭に認識する。なぜ自分が
  この人を愛して、あの人を憎むのか、このことに幸せを感じ、別のことに
  不幸せを感じるのか、今彼はその理由を理解する。眼に見える人生の
  諸相が、眼に見えぬ諸原因を知ることを通して、今、理解できるものと
  なる。人生の基本的な諸現実、病気と健康、死と誕生がその意味を彼
  の前明らかにする。自分が生まれる以前に、ふたたびこの世に生を受け
  ねばならぬ原因がすでに作り出されていたことに、彼は気づく。自分の
  内なる本性は、眼に見えるこの現実世界の中では、まだ不完全な形で
  しか形成されていないこと、その不完全さは同じこの世の現実の中でし
  か、完全にすることができないこと、それが今彼にとって明らかとなる。
  なぜなら自己のこの本性を育成しうる機会は、他のどんな世界の中に
  も存在しないからである。
  (シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』
   ちくま学芸文庫/P.241-242)

人は自分の醜さに耐えられないがゆえに、自己認識を避けようとするのだろう。
自己認識のためには、まず自分が自分をふりかえるということが出発点になる。
そのプロセスを継続していくことで、
今の自分の原因が自分以外のものには求められないことが明らかになる。

外からくるさまざまなことが原因で今の自分が不幸である、不本意である。
そんなふうに考えることは容易いのだけれど、
少なくともそうした思いは、自分というフィルターを通って、
自分がそう感じているのだということだけは否定できないだろう。
そう感じているもの、イメージ、表象は自分のものであって、
他の人の所有しているものではない。

では、なぜ自分はそう感じているのかを考えてみる。
そして、なぜXという要素が自分を苦しめるのか。
Xが悪いから云々というのではなく、
なぜXという事実が自分に向かってくるのか。
そのことを繰り返し繰り返し考えてみる。
気がつけば、そのXのことばかりを思い浮かべてしまう、
その自分の意識のフィルターである変換関数について考えてみる。
ある人にとっては、そのXは
とくに何の問題もなく過ぎていくだけのことかもしれないにも関わらず、
どうして自分にはそれが自分の不幸だと思えてしまうのだろう。
ある人にとっては原因にならないものが、
なぜ自分の原因になってしまうのだろう。

そんなふうに考えていくと少なくとも明らかになるのは、
自分がその原因にしてしまうというその傾向性は
自分以外のものに求めることはできないだろうということである。
自分の生まれ育ってきた環境などの影響もあるだろうが、
同じ環境で育ったとしても同じものに対する反応は違ってくる。
その違いこそが、自分が深いところで
選択を余儀なくされていることだということがいえる。

だから、人はいわば秘儀参入のある時点で、
自分のありのままの姿に直面する必要に迫られる。
なぜ「境域」が「守護」されなければならないのか。
なぜなら、完全な自己認識なくして成長は不可能だからである。
自分をありのままに見ることのできない成長、進化はありえない。
そして、秘儀参入というのは、すべての人間がこれからの進化の過程で
必ず通る必要のある段階を先取りするプロセスなのだから、
この自己認識はいずれすべての人の通過する道でもあって、
神秘学を学ぼうとするならば、秘儀参入云々以前に、
今の自分は自分のつくりだした姿であって、
そのすべての原因を自分でひとつひとつ検証していくことなくして
いかなる成長もありえないということがいえる。

そして、その成長の舞台は、「霊界」ではなく、
この地上世界以外のところにはない。

「私」は、この地上世界に自分の種を蒔き、それを育て、
花を咲かせ、果実を収穫しなければならない。
さまざまな困難がそこには起こってくるだろうが、
そのすべての責任は自分以外のところに求めることはできない。
しかし、最初、種をどう育てていけばいいのかわからず、
さまざまな失敗をしてしまうことは避けられないだろう。
発芽するために水が必要なことも学ばなければならないし、
光や養分が必要なことなども学ばなければならない。
最初からうまくいくことなど望めない。
繰り返し繰り返し自分の誤りに気づきながら、
少しずつ自分なりの仕方で自分を育てていく方法を学び、
そのプロセスをなんとか遂行できるところまで至らなければならない。
そのルールの最重要ポイントは、育てるのはこの地上世界以外には
ないということだ。

だから、なぜ今の自分がこうなのか、
ひとつひとつ、検討を重ねながら修正していく以外にはない。
そのひとつひとつが勝負であり、
そのひとつひとつに大いなる勇気が必要となる。