シュタイナーノート153
思考、感情、意志と魂のポエジー化
2009.4.23

思考、感情、意志 の関係について。

『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』の
「神秘修行における人格の分裂について」の章で示唆されているのは
その三つの魂のあり方が、修行の過程において、
それまで保っていた関係をもたなくなり、
思考、感情、意志 が肉体上の器官としてもそれぞれが独立するため、
それらの行動を修行者自身が自分の責任で
自由に協働させていなかければならなくなるということである。

   修行によって修行者のエーテル体とアストラル体に大きな変化が生じる
  ことは当然である。この変化は三つの基本的な力、意志、感情、思考の進
  化の過程と関連している。この三つの力は修行以前には、高次の宇宙法則
  に従って相互に特定の結びつきを保っていた。人間は勝手な仕方で欲した
  り、感じたり、考えたりはしない。たとえば特定の表象が意識の中に現われ
  れば、自然に特定の感情がそれと結びつく。あるいは、それと必然的に関
  連する決断を呼び起こす。或る部屋に部屋に入って、そこが息苦しいと思
  えば、窓をあける。自分の名前が呼ばれれば、その声に注意を向ける。質
  問をすれば答える。悪臭を放つものをみれば、不快な感情を抱く。これら
  の事柄は思考と感情と意志との間の単純で必然的な関連を示している。
  そして人生はすべてこの関連の上に打ち立てられているのである。事実、
  正常な人間とは思考と感情と意志とがこのような結びつきを現わしている
  人間のことである。その結びつきは人間性に基礎を持っている。(略)
  ーーすべてこれらの事柄は、人間の霊妙なエーテル体とアストラル体の中
  で、思考、感情、意志という三つの魂の力の各中心点が規則的な仕方で互
  に結びついていることによるのである。(略)ーーさて、人間の霊的進化
  に際して、これら三つの基本的な魂の力を結びつけていた糸が断ち切られ
  る。(略)
   このようにして思考と感情と意志の器官は、それぞれ単独で存在するよ
  うになる。それらの結びつきは、もはやあらかじめそこに植えつけられた
  規則によって作り出されることはできず、人間自身の中に目覚めた高い意
  識によって、新たに作りだれねばならない。(略)今や修行者は自分で意
  識的に配慮するのでなければ、自分の表象と感情、もしくは感情と意志決
  定との間に何らの関連も生じなくなってしまう。いかなる誘因も、もしそ
  れを識的に自分自身に作用させようとしなければ、思考から行為へ導かな
  くなる。以前から、燃えるような愛情や恐るべき嫌悪に襲われたであろうよ
  うな事実を前にしても、今はまったく無感動なまま、その前に立つことが
  できる。以前なら思わず熱中して行動に向かったであろうような思考内容
  を心中に抱いても、何もしないで、じっとしていることができる。一方神
  秘修行を実行しない人間にとってはまったく何の動機も見出せないような
  意志決定からも、行為を遂行することができる。修行者に与えられる偉大
  な成果は、この三つの魂の力の協働作用を完全に自由に行いうることであ
  る。しかしその場合の協働作用の責任はすべて、彼自身が負わねばならな
  い。(略)
  (シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』
   ちくま学芸文庫/P.218-220)

あらためて自分の思考と感情と意志の関係を見直してみると、
たしかにそれなりの、ある意味、「自動的」とでもいえるような協働が
そこには働いているのがわかる。
それは「自動的」であるために、意識されないことが多いが、
ときにはその「自動的」であるために起こってしまいがちなルーティーンを
なんとか制御して別の回路に導こうと四苦八苦したりもする。

あることに直面して、ある表象(イメージ)が喚起され、
そこからどうしても起こってくる感情をなんとか押しとどめようとしたり、
衝動的にある行動をとってしまいそうなのをなんとか押さえたり、といったこと。

そうしうことをさまざまにふりかえってみてわかることは、
意思考と感情と意志 というのは、最初、ある意味で渾然一体となっていて
おなじ源泉から来ているようにも思われるのだけれど、
次第にそれぞれが少しずつ違った様相を示し始めるということである。
だから、成長とともに、
思考から感情への働きかけや、意志への働きかけなどを
自覚的に制御することができるようにもなる。
「そんなこと、しちゃいけない」と思って、
「そんなこと」という表象から自動的に喚起しがちな感情を押しとどめ、
行動に移ってしまうことのないようにすることもできる。

とくに神秘修行云々ではないのだけれど、日常生活のなかでも、
思考と感情と意志 というのは、自覚を深めることで、
それぞれを切り離して制御する部分というのはある程度もっているわけである。
そうでなければ、人間はほとんどプログラムされたロボットのようになってしまう。
生まれ持った魂の傾向性と育った環境から受けたさまざまな影響で
ある程度決まった行動パターンをもった人間。

もちろん、思考、感情、意志のある程度の「型」がなければ、
人格はほとんど破壊的になってしまうので、必要な部分ではあるのだが、
それだけだとやはり魂の成長はない。
難しいところだけれど、ある程度その3つが調和的に働くように、
最初はある程度「型」を身につけるようにしながら、
それを「破」ることができるようにもならなければならない。
そして、ただ「型」を破ることができるだけではなく、
さらに「離」という新たなありようを獲得していく必要がある。
魂の「守破離」である。

しかし、次の示唆は、とくに考えさせられるところである。
思考と感情と意志がある「型」のもとにある場合は、
なんとかバランスをとっている魂が、
「破」を受けたときに陥ってしまう危険性である。

意志だけが突出してしまうと、権力的暴力的人間になり、
感情だけが突出してしまうと、依存的で耽溺する人間になり、
思考だけが突出してしまうと、冷たい無感動な人間になってしまう。

   思考と感情と意志力のこの相互分裂は、神秘学上の指示を無視する場合、
  修行の過程で三つの誤謬を犯すことを可能にする。これらの誤謬は、高次
  の意識が相互に分裂した三つの力をいつでもふたたび自由に調和させうる
  能力を獲得する以前に、すでにこの分裂がはじまってしまった場合に生じ
  る。ーーなぜなら魂の三つの力がそれぞれ同じ進歩をとげているというこ
  とは概してありでないからである。(略)たとえば意識的人間の場合(略)、
  修行者の高次の意識がみずから調和を作り出すまでに達していなければ、
  意志は統御されぬままに自分の道を突き進み、その担い手である人間を圧
  倒する。感情と思考は完全な無力状態に落ち込む。人間は自分を奴隷のよ
  うに支配する権力意志によって鞭打たれる。いかなる拘束も受けずに行為
  から行為へと突っ走る暴力的人間が出現する。ーー感情が際限なく合法則
  的制約から解放されるとき、第二の邪道に落ち込む。他人を崇拝する傾向
  を持った人は、限りなく依存性を求め、自分の意志や思考をまったく見失
  ってしまうことになる。高次の認識の代わりに、憐れむべき内容空虚と無
  気力の生活がこのような人物の運命となる。ーーあるいはまたその圧倒的
  な感情が敬虔さと宗教的高揚に傾きがちな性質の人は、彼を盲信的な宗教
  的熱狂に追いやる。ーー思考が心の中で圧倒的地位を占める時、第三の悪
  が生み出される。その場合、日常生活を敵視する自己閉鎖的な隠遁生活が
  生じる。このような人にとって、世界は、無限に強められた認識衝動を満
  足させる対象を提供する限りにおいてのみ、意味を持つように見える。そ
  の人の感情や行動はどのような思考内容によっても刺戟されない。いたる
  ところで冷たい無感動な態度が現れる。日常的な現実と関係することは嘔
  吐をもよおすような、あるいは少なくともまったく意味を持たないような
  事柄でしかない。
   以上が修行者の陥りがちな三つの邪道である。すなわち暴力的人間、感
  情的耽溺、愛情に欠けた冷たい認識衝動である。
  (同上/P.221-223)

修行上エラーを起こしてしまった上記のような例そのままではないとしても、
日常的にもそうした傾向をもった人はわりと見受けられることがある。
神秘行云々ではないとしても、思考と感情と意志はある程度独立しているところがあって、
かなり偏った魂の傾向性があるときには、同じようなあり方になってしまうのだろう。

要は、思考と感情と意志がある程度それぞれ自由度を獲得していく際に必要なのは、
ある種の魂の芸術的な調和についての理念とでもいうものなのだろう。
アナーキーな暴力性としてではなく、ハーモニーを奏でられるような魂の創造へ。
「すべての学はポエジーになる、哲学になったあとに」というノヴァーリスの
言葉を使えば、
「すべての魂はポエジーになる、自由になったあとき」と表現することもできるかもしれない。