シュタイナーノート152
「思考」から始めるプロセスの重要性
2009.4.19

「考える」ということは、
いわゆる「頭だけ」でできるわけではなく、
「ハートで考える」というのも大切ではあるけれど、
最初から「ハートで考える」とするならば、
そこには肝心なプロセスを欠いてることになることを
しっかりと理解しておくことが必要ではないかと思っている。

『霊界の境域』(水声社)のなかにも
「明瞭な意識にとって、思考は生活の中を流れ去る印象、気分、感情等の
本流のただなかの一つの島である。印象や感情を思考によって照らしだし、
把握すれば、印象や感情から自分を自由に保つことができる。魂の舟を思
考の島へ漕ぎ着けることができれば、激しい感情の嵐の中にあっても確固
とした平安を得ることができる」とあるように、
印象や感情のほうからスタートすると、
自分がいったいどこにいるのか、
どこに向かおうとしているのかわからないし、
そうしたことにおける「自由」を保つことはもはやできなくなる。
「1+1=2」であることさえわからないままに、
方程式を解こうとしたり、いきなり微分・積分などを理解しようと
無謀なことをするようなものである。

なぜ『自由の哲学』が基礎となっている必要があるのかも
その観点から理解しておかなければならないと思われる。
つまり、出発点は、「思考」なのである。
その出発点があって、そこからさまざまなプロセスがはじまる。
いきなりプロセスの途中からはじめるわけにはいかない。
階段は、最初の一段から、一段一段、確かに登っていくべきであって、
階段の途中にいきなりとびあがってしまうことはできないし、
たとえアクロバティックにその場所まで跳び上がることができたとしても、
そのリスクは大きいし、おそらくそうできる人は、
その途中のプロセスを何度も経てきている人に限られていると考えていい。

『いかにして超感覚的世界の認識を得るか』においても、
そのことに関連したことは、
神秘修行者の修行のプロセスとして明言されている。

   神秘修行者は、一日の中の特定の時間を選び、その短い時間の間、
  魂の中に行の内容を集中的に浸透させ、いわば内部を完全にその内容
  で充満させなければならない。まず単純な内容から始める。知的な思
  考力を深化し、内面化するのに特にふさわしい内容が選ばれる。思考
  はこのことによって、一切の感覚的な印象や経験から自由になり、独
  立するようになる。いわば思考は修行者自身の手が完全に掌握する一
  点に集中させられる。このことによってひとつの暫定的な中心点がエ
  ーテル体の流れのために作られる。この中心点は最初はまだ心臓部に
  ではなく、頭部にある。見霊者はこの部分にエーテル体の流れの出発
  点をみるであろう。ーーはじめにこのような中心点を作る行法だけに、
  完全な成功が期待できる。もしはじめから中心点を心臓部におくなら、
  見霊能力を得たばかりの修行者は霊界を瞥見することはできるであろ
  うが、霊界と感覚的世界の関係についての正しい洞察を得ることはで
  きないであろう。そしてこの洞察こそ、人類の意識の進化における今
  日の段階を生きる者にとって、無条件に必要とされる事柄である。見
  霊者は夢想家となることは許されない。足をしっかり大地の上に置か
  ねばならない。
  (シュタイナー『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』
   ちくま学芸文庫/P.170-171)

つまり、こうした確かなプロセスを経ることなく、
たとえばいきなり「ハートから」はじめようとしたときには、
「足をしっかり大地の上に置」くことができず、
「霊界と感覚的世界の関係についての正しい洞察」を得ることができなくなる。
シュタイナーが、『自由の哲学』において、感情神秘主義や意志形而上学ではなく、
思考の一元論という観点から説いているのも、そのことに関連して見ていけば、
理解は容易になるだろう。

いわゆる宗教者やニューエイジ的な霊指向が
現代において抱えてしまう問題もそこらへんに関連して考えるとわかりやすい。
つまり、そこには「思考」という確かな「一つの島」のないままに、
確かなプロセスを経ないことによる危険性がそこにはある。
そして危険ではない場合でも、霊的世界と地上世界との関係を
「足をしっかり大地の上に置」いて展開することができなくなる。

『いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか』において、
喉頭部の16弁の蓮華、心臓部の12弁の蓮華は、
それぞれの蓮華の半数は、太古の時代にすでに活性化され活動していて、
それらは現在活動していないとしても残りの半数の蓮華を開発することで、
太古で働いていた蓮華もおのずと動き始めるということが述べられているが、
思考から出発するプロセスでない場合、
その太古に活動していたほうの蓮華のほうに働きかけてしまい、
その場合、たとえ霊界を見る力を得たとしても、
霊的世界と地上世界との関係を持ち得ないまま、
「足をしっかり大地の上に置」けない状態になってしまうのではないだろうか。
つまり、現実感覚のないまま半分霊界に住んでいるような状態になってしまう。

精神科学というのは、単に霊界を理解するとか、
霊界への道を早く歩みたいとかいう人のためのものではなく、
まさに、繰り返しになるが、
「霊界と感覚的世界の関係についての正しい洞察」を得て、
足をしっかり大地に踏みしめながら歩くためのものなのである。

このことは、たとえば、『薔薇十字会の神智学』などにおいても
明確に唱われている。
好きな箇所なので、引いておきたい。

   単に理論的に価値のある体系を打ち建てるのではなく、現代の知の
  根底を認識しょうとし、霊的真理を日常生活に流入させようとすると
  きに必要なものを、薔薇十字の叡智は提供するのです。薔薇十字の叡
  智は頭だけでも、心だけでもなく、日々の行為の中に行き渡ります。
  感傷的な同情ではなく、人類全体への奉仕能力の鍛錬なのです。薔薇
  十字会は人類の友愛のみを目的として創設された、人類の友愛のみを
  説くだけの協会ではありません。薔薇十字会員は次のように語ります。
  「脚を折った人が道に倒れているところに通りかかったと想像してみ
  てください。十四人の人々が骨折した人を囲んで温かい感情と同情を
  抱いたとしても、その中の一人も骨折を治療する術を知らなかったな
  ら、この十四人は感情豊かでなくとも骨折を治療できる一人の人に本
  質的には劣るのです」−−このような考えが薔薇十字会員を貫く精神な
  のです。
  (シュタイナー『薔薇十字会の神智学』平川出版社/P.22)

最初から「ハートで」というふうに
必要なプロセスが欠如してしまったときには、
この引用にあるように、十四人の
「骨折した人を囲んで温かい感情と同情を抱」く人になってしまうだろう。
それを「アストラル的歓楽」に陥るという言葉でも表現することができる。