シュタイナーノート151
来るべき自然学へ
2009.4.7

「ノート150◎内面にある破壊のかまど」の流れで、少し。

  外界では、事物が物質として現われています。私たちの見るものは、す
 べて物質です。ですから今の科学は、その思考習慣に従って、質料の恒存
 を、エネルギーの変換を語ります。
  しかし、破壊のかまどの中では、物質が本当に消滅してしまいます。無
 の中に投げ込まれます。しかしそのとき、私たちはこの無の中に、善なる
 ものを生じさせるために、自己中心的な本能や衝動の代わりに、道徳理想
 のすべてをこの破壊のかまどの中に注ぎ込まなければならないのです。
  それができたとき、私たちの内面に新しい事態が生じます。まさにこの
 破壊のかまどの中に、未来の世界のための萌芽が現われるのです。
 (中略)
  新しい学問は、昨日述べた内的真実の上にしっかりと立たなければなり
 ません。私たちの学問は、人間の内面の中に自然法則しか見ようとしてい
 ませんが、これまで述べてきた破壊のかまどの中でこそ、自然法則と道徳
 法則が一つに結びつくのです。私たちの内面で、物質が、つまり自然法則
 が消滅させられます。物質のすべてがカオスに帰し、そのカオスから新し
 い自然が立ち現われるのです。私たちが内面に注ぎ込んだ道徳衝動が、こ
 の新しい自然となって生き始めるのです。
 (シュタイナー「内面への旅」
  シュタイナーコレクション2『内面への旅』高橋巌訳 所収)

トポスのホームページのTOPには
「すべての学はポエジーになる、哲学になったあとに…。」
というノヴァーリスの言葉を置いている。

ノヴァーリスは、「来るべき自然学」として
「自然科学のポエジー化」を構想しているが、
その「きたるべき自然学」の基礎となるものこそ、
まさに上記の引用にあるように
内面の破壊のかまどにおいて
自然法則と道徳法則との結びつきをはかることなのではないだろうか。
シュタイナーが示唆する諸科学の人智学的拡張は
まさにそこからはじめて展開し得るものなのではないだろうか。

シュタイナーの『自由の哲学』の重要性というのも
そのことに関連して考える必要があるように思う。
『自由の哲学』における記述では、「自由」と「自然」との間に
橋を架けているとは言い難いところがあるのだけれど、
ある意味、そこで示唆されている自然法則と道徳法則との一致こそが
「来るべき自然学」でもある精神科学を展開させることができる。

キリストへの示唆もそのことからとらえてみる必要がある。
キリストが地下へ降ったというのも、
それが自然そのものの変容の可能性でもあったことを見落とすわけにはいかない。
「愛」は、ある意味で、対立物の一致へと向かうものでもあるのだが、
それは魂における「我と汝」の錬金術的相互変容を意味するだけではなく、
私たちの内面の鏡を破ったところにある破壊のかまどにおいては
物質そのものさえがカオスとなり、そこから新しい自然が立ちあらわれるように、
自然そのものがそこから「創造される自然」の錬金術をも
意味するのではない だろうか。

なぜ、すべての学はポエジーにならなければならないのか。
それは、まさにそうした自然法則と道徳法則との一致へと向かう
錬金術的変容が必要とされるからである。
そしてその基礎にあるものこそを
シュタイナーは『自由の哲学』によって明らかにしている。
そういう視点から『自由の哲学』を読むことができる。
そうでなければ、なぜ『自由の哲学』が人智学の基礎なのかが
見えてこないように思うのである。