シュタイナーノート150
内面にある破壊のかまど
2009.3.24

  現代の私たちの通常の自己認識は、変化した外界の反映にすぎません。
 外界が私たちの内面にある意識の鏡に映し出されたものにすぎないのです。
 私たちが本当に自分の内面を見ようとするのなら、この内なる鏡を破らな
 ければならないのです。
  私たちの内面は、本当に鏡のようになっています。(中略)私たちは記
 憶の鏡に映し出されているものを見ているのです。鏡を破らなければ鏡の
 背後が見えないように、人間の内面も、内面の鏡を破らなければ、見るこ
 とができないのです。
 (中略)
  内面の、記憶の鏡の奥のところに、私たちは途方もない破壊力を担って
 います。もしもこの力を担っていなかったら、私たちは思考力を発達させ
 ることができなかったでしょう。思考力は、エーテル体のこの破壊力に浸
 透しなければ、発達できないのです。そして、思考の力に浸透されたエー
 テル体は、肉体に作用を及ぼし、肉体の物質素材をカオス化し、破壊する
 のです。
  何かを思い出そうとするときと同じ態度で、内面に深く沈潜しようとし
 て下さい。そうすると、そこに存在するものを破壊し、消し去ろうとする
 力の働いている領分にいたります。私たちは誰でも、記憶の鏡の奥に、ま
 さに思考する自我を発達させるために、物質を破壊し、融解しようとする
 猛火を担っているのです。そして、この人間の内なる事実を真剣に顧慮し
 ないような自己認識など存在しないのです。
  人間の内面のこの「破壊のかまど」に出会ったとき、精神の発達とは何
 か、あらためて考えざるをえません。精神があるべきように存在するため
 には、私たちの内面において、物質を破壊する行為が平行して行われなけ
 ればならないのです。
 (中略)
  私たちの内面には、破壊のかまどがなければなりません。なぜなら、人
 間の自我は、このかまどの中でなければ、鍛えられないのですから。この
 かまどは、自己を強固にするためのかまどでもあるのです。
  しかし、強固にされた自我が、外の社会生活の中にこのかまどを持ち込
 みますと、社会生活の中に悪が生じます。
  このことからも分かるように、人生は非常に複雑な在り方をしているの
 です。人間の内面にあっては、自我を鍛える、という善い使命を果たして
 いるものは、外へ持ち出されてはならないものなのです。悪い人はそれを
 外に持ち出し、善い人はそれを自分の中に留めておきます。外へ持ち出さ
 れると、犯罪になり、悪になり、内面に保持していれば、自我を強固にす
 るために、なくてはならないものになります。
 (シュタイナー「内面への旅」
  シュタイナーコレクション2『内面への旅』高橋巌訳 所収)

「人間の思考と行為は自由であるか」というのは、
『自由の哲学』において問いかけられた重要な問いである。
もし自由ではありえないとすれば、
私たちの行なうあらゆる思考と行為は
必然という鎖につながれた奴隷のようになってしまう。

『自由の哲学』における「一元論」の帰結は、
「人類の道徳生活は自由な人間個性の道徳的想像力が産み出したものの総計である」
というものであった。
「類的なものから自分を自由にする程度如何が、
共同体の内部にいる人間が自由な精神でいられるかどうか決定する。
どんな人も完全に類でもなければ、完全に個でもない。
しかしどんな人も、多かれ少なかれ、動物的生活の類的なものからも、
自分の上に君臨する権威の命令からも、自分の本質部分を自由にしていく。
しかしこのような仕方で自由を獲得することができない人は、
自然有機体か精神有機体の一分肢になる。
そして他の何かを模倣したり、他の誰かから命令されたりして生きる。」

もし私たちの内面が、外界の単なる鏡であるだけであるとしたら、
ここでいう「自由」を獲得することはできないだろう。
「自然有機体か精神有機体の一分肢になる」ということは、
動物的に生きるか共同体の奴隷になるということにほかならない。
基本的に模倣だけを是とし権威を頼みにし、模倣と権威以外を拒む生き方である

「自由」を獲得するということは、
自我を強固にするために、内面の鏡を破壊するということでもあるだろう。
かつて神々の啓示を映し出してさえいたであろう鏡を破壊する。
破壊されてしまえば、外界を映し出すことはできず、
模倣によって生きることも権威に従って生きることもできなくなる。

神々の啓示を映し出せなくなるということは、悪である。
その意味で、自由の獲得とは悪の可能性の獲得でもある。
一点の曇りもない鏡を事として生きる生き方にとって
それは耐えきれないほど邪悪なあり方でもあるだろう。
しかしその悪によってしか自我を強固なものにすることはできない。
自我は悪の坩堝で熱せられてはじめて鍛えられる。
思考力はそこでこそ育つことができる。

自由であるということは悪でもあり得るということである。
しかし悪でもあり得るということは、
内面における悪の可能性ということは、
そのままそれを外界に投射するということではない。
そこが重要である。

自由の両義性がそこにでてくるわけだが、
内面における悪を変容させる関数としての「道徳的想像力」の有無が重要になる。
「道徳的想像力」というのは、もちろん、
権威としての善や模倣による純粋さのようなものではないし、
裏づけとして必要になるのは、鍛えられた思考力でもある。
『自由の哲学』の「初版の第一章」にもあるように
「本書は最初、抽象的な領域に入っていく。
そこでは思考内容が鋭い輪郭づけを受けなければならず、
それによって確実な点に至らねばならない。
しかし読者はこのひからびた諸概念から具体的な人生の中へも導かれる。
人生のあらゆる方向を生きようと望むならば、
抽象化というエーテルの中へも入っていかざるをえない、
というのが私の立場なのである。
感覚で享受できるものだけを享受しようとする人は人生の美味を知らない。」

内面における破壊のかまどということからは、
たとえば、ドストエフスキーの『地下室の手記』や
村上春樹の作品に描かれている
井戸の底に下りていく主人公などを思い出したりもする。
自分の内面にある「鏡」を是とするだけでは
そこからはどこにも行けなくなってしまったとき、
人は「鏡」を破ってその向こう側にいかざるをえないのである。
たとえそれが、悪への可能性を孕んだ道であったとしても。
悪の可能性のなさは、みずからの精神の可能性を捨てるということでもあるのだ
から。