シュタイナーノート103

魂と身体との相互作用のプロセス


2004.12.29

	 一体、内界系の印象の下に生じるプロセスと外的な知覚のプロセス
	との間にはどのような相互作用が生じうるのでしょうか。私たちはそ
	のことをはっきり知っておかなければならないのです。なぜならどれ
	ほど濾過されて、自我の道具になりうるほどまで精妙な素材になった
	としても、人体内の血液はいずれにせよ物質の素材なのであり、その
	点で肉体の一部分なのだからです。ですからこの血液と魂のいとなむ
	知覚のプロセスとの間には非常に大きな距離が存在しているはずです。
	このことを否定することはできません。知覚、概念、理念、感情、意
	志の存在を否定することはできませんし、同様に血液、神経、肝臓、
	胆汁の存在を否定することもできません。そうしようとする人は思考
	力そのものの存在を否定することになるでしょう。
	(…)
	この二つの現実を対比させるとき、別の事柄に気がつきます。一方に
	は血液のように高度に濾過された物質があり、他方には物質とは全然
	関係のない、感情、思考内容などの魂的内容があります。そして実際
	にこの二種類の現実相互の関係については様々な世界観が異なる解釈
	を加えているのです。
	(…)
	今、私たちが魂のいとなみを非物質的経過として、そして人体のもっ
	とも生命化された血液を物質的な経過として、この二つを対比させて、
	身体の活動と魂の活動とがどのように相互に働き合っているかを考え
	ようとするとき、このような知的な考え方は何も教えてくれません。
	知的な思弁を通して見出せるものは勝手な結論か、もしくは無解決で
	しかありません。
	(シュタイナー『オカルト生理学』ちくま学芸文庫/P93-95)
 
ごくごく単純なことで、だれでも考えることのできることなのだけれど、
私たちが知覚したことがどうして身体に影響を及ぼすのだろうか。
 
知覚するというのはそのままでは物質的なプロセスにはならないはずで、
もし知覚プロセスが身体に影響を与えることができるのだとしたら、
それがどのような経過で影響しえるのかを明らかにする必要がある。
 
知覚プロセスが身体に影響するのは、まさに事実なので、
その事実をより明確に説明することができなければならないが、
おそらくそれを「現代科学」によって説明することはできないだろう。
 
しかし、「現代科学」はその経過を問わないようにしながら、
その「事実」から出発することになる。
そうした認識態度はかなり不誠実なのではないかと思われる。
「現代科学」というのは、そういう意味でも、
さまざまなそうした「不誠実」をもとに成立していることが多い。
そうしたことに意識的になるだけでも、
精神科学への大きな一歩になるのではないかと思う。
 
では、シュタイナーは、魂の働きがどのようにして
身体的な物質的経過に影響するというふうに説明しているのだろうか。
とても興味深いところなので、それをたどってみることにしたい。
 
以下、ぼくの説明能力で内容をゆがめてしまうことを恐れ、
少し長くはなるものの、いくつかの引用編集で説明を加えることにする。
 
	最初私たちは外界に向かいます。そしてそこから印象を自我の中に
	取り込み、アストラル体の中でそれを消化します。けれどもアスト
	ラル体の中で消化するだけでしたら、すべてをすぐに忘れてしまう
	でしょう。印象を確保して、しばらく経った後で・・・それを再び
	思い出すことができるようになるには、自我によって獲得され、ア
	ストラル体によって消化された印象を、エーテル体の中に刻印づけ
	ておかなければなりません。外界との接触を通して魂が経験した事
	柄を自我はエーテル体の中に刻印づけなければならないのです。
	 それでは、肉体に隣接した超感覚体であるこのエーテル体に、一
	体どのようにして印象を刻印づけることができるのでしょうか。
	(…)
	 それは非常に不思議な仕方で為されるのです。まず、エーテル体
	の内部での血液を図式的に観察してみましょう。心臓を通して流れ
	る血液は人間自我の物質的な表現なのですが、自我が外界に応じて
	印象を受け取り、それを記憶表象にまで濃縮する際、血液は単に働
	いているだけでなく、特に上方に向かって、下の方に向かってはわ
	ずかですが、上方のいたるところでエーテル体を刺激しています。
	ですからエーテル体はいたるところで流れを生じているのですが、
	その流れは心臓から出て頭の方へ流れる血液に結びついた流れ方を
	しています。そしてそのエーテル体の流れは頭の中に集まり、そし
	てまるで電流のように、一方の先と他の先端とで陰極と陽極のよう
	に対峙するのです。
	(…)
	これら二つのエーテルの流れが、一方は下から、他方は上から、最
	大限の緊張を伴って、二つの電流の流れのように対峙しているので
	す。そしてこの二つの流れがショートを起こすとき、表象が記憶さ
	れ、それがエーテル体に組み込まれるのです。
	 人体内の超感覚的な現実であるエーテルの流れは、記憶のための
	身体器官をつくり出しています。中脳の中に記憶を生じさせる一つ
	の器官があります。それに対してもう一つ別の器官も脳の中にあり
	ます。そしてこの二つが脳の中で、エーテル体の二つの流れを身体
	的に表現しております。これらの流れが生体に働きかけ、この二つ
	の器官を生じさせたのです。実際、私たちはこれらの器官の一つか
	ら他へエーテル的な明るい光が流れて、それが人間のエーテル体の
	中へ注ぎ込まれているかのような印象を持つのです。この二つの器
	官とは松果腺と脳下垂体のことです。この二つは、魂と身体とが相
	互に働き合っていることの可視的な表現なのです。
	(同上/P97-102)
 
私たちは魂の働きである知覚印象を
まるで食べ物のようにして吸収している。
それをアストラル体が「消化」し、それをエーテル体に刻印する。
そして松果腺と脳下垂体という二つの器官の対峙によって、
魂と身体の相互作用が可能になっている。
 
私たちが日々知覚しさまざまな印象を持つということは
まさに「魂のたべもの」となっていて、
それがからだの養分にもなっているのだという発想は
とても重要な示唆なのではないだろうか。
 
わたしたちにとって「すきとおった透明なたべもの」としての
魂の糧を豊かにすることがどれほど大事なことか、
現代の唯物論化した世界観では説明することができない。
その世界観は豊かさをみすみす貧しいものにしているのだといえないだろうか。
芸術さえもがそんななかでは、豊かなたべものにはならなくなるのではないか。
 
そのためにも、知覚がなぜ身体に働きかけることはできるか、というような
きわめて素朴な問いを持つことが大切なのではないかと思うのである。
 
 

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